2019年07月22日

2019年7月21日礼拝メッセージ 「どうして私をご存じなのですか」ヨハネ1章43-51節音声で聴く。

ヨハネ1:43−51   「どうして私をご存じなのですか」   19/7.21

【序】私がクリスチャンになるまでは神とは物言わぬ偶像だった…。聖書を読むようになり真の神は天地万物を造り全知全能の生きた神であり、しかも愛をもって人の過去をも作り変えて未来を祝福される神であることを知った。今日出てくるナタナエルという人物はキリストとそういう出会いをする。キリストとの出会いを通して見いだす真理についてお語りしたい。


T.キリストはいかなる人をも価値づけ役に立つ者にされる

 ナタナエルは他福音書ではバルトロマイ。このバルトロマイの意味は「バル」=息子。即ちバルトロマイとは「トロマイの息子」との意味。こんな変な名前の付け方はない→」親は何らかの理由で息子独自の名前を付けなかった(価値がない?)そんなバルトロマイがキリストに出会い12弟子の一人として召される。ここに励ましがある。人には無視されるような人物であっても、神には尊い存在であり、かつ神のお役に立つ存在になりうるということである。ちなみにナタナエルとは神の賜物との意味(伝承では、キリストが新たに名を与えられた)

 【適用】お笑い系の芸能人が反社会的勢力の営業を受け嘘をつき謝罪もしないとマスコミに叩かれ職場から解雇された。でも事実は違ったようだ…。会社から謝罪をしたらクビだと恫喝されていた。会社保身のために個人を潰しにかかっていた。何とキリストと違うことだろう。


U.キリストは人に会う前からその人の過去も未来も知っておられる

「どうして私をご存じなのですか」(48)

 不思議なことだが、人が初めて教会に来るまでに神はその人のことを知って

いるということ。【証】私の場合も教会に来るまで神に知られているとは想像さ

えしなかった。しかし教会に来て「あなた方がわたしを選んだのではない。わた

しがあなた方を選んだ」(ヨハネ15:16)を読み驚いた。すると交通事故や父の事

業の倒産のことも知って救いを与えるために教会に導かれたのだと悟った。

すると私の過去の人生の虚しさや出来事の意味が変わるという人生の変革を経

験した。→キリストはあなたのすべてを知っていて導いておられるのだ。


V.キリストは隠れた善を覚えてくださっている

「ピリポがあなたを呼ぶ前にあなたがイチジクの木の下にいるのを見た」(48)

イチジクの木の下は敬虔なユダヤ人が仕事の手を休めて日陰ができる大きな葉っぱの下に身を隠して、神に祈る場所であった。ナタナエルは日中人に隠れてひそかに真実に祈る人物であり、主イエスはその祈りの姿を知っておられた。こんな麗しい姿を知られるのは幸い!

【適用】私たちはどこで花を咲かせ、実を付けているだろうか?

外ばかりが目立つが内実の乏しい私たちではないだろうか…。ナタナエルは外ではなく内に実を結ぶ。イチジクは無花果と書くが、無いのではなく外ではなく内(実を割って見られる赤い点々が花)に花を咲かせている。そうありたい!

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2019年07月16日

2019年7月14日礼拝メッセージ 「何を求めているのですか」ヨハネ1章35-42節音声で聴く。

ヨハネ1:35−42   「何を求めているのですか」       19/7.14

【序】米国ベテル神学校にバージル・オルソン博士というユーモアのある人気者の先生がいた。いたずら坊主の少年時代、礼拝堂の中を走り回っていたが、農夫をしていた教会学校のおじさん先生に腕をむんずと掴まえられ「バージル、君は将来何になるつもりだ?」そのおじさんの声と手は神さまの声と手でもあった。神様に捉えられ献身への道となった。ひと言が人生を捕らえることがある。ヨハネとアンデレとペテロがキリストとの最初の出会いで言われた言葉がそうだった。それは私達への言葉でもある。カギになる言葉が三つある。


T.「何を求めているのですか」(38)

 この質問はキリストが解らなかったから尋ねられたのではない。神の御子キリストはご存じ。なのに、なぜ尋ねられたか?それは私たちも神に様々なことを願うが、果たしてそれが神のみ心に沿ったものかどうか疑わしい時がある。だからこそ神から「何を求めるのか」と改めて聞かれ、真に御心に沿ったものを求める事を知るためである。

【例】ソロモンの良き例(「何を願うか、言え」「民の声を聴き分ける判断力を下さい」「あなたは富も長寿も敵の命を求めず、民を導く判断力を求めた。与えよう。更に願わなかった富も誉も与えよう」。

 人の求めには、神の御心に叶う求めと、そうでない場合がある。神の御心に叶う求めは必ず与えられるし、求めなかったものまでも与えられる。

マタイ6:33「神の国と義を先ず第一に求めよ」…  


U.「来なさい。そうすればわかります」(39

 弟子達の質問は「どこに泊まられるのですか」。この質問に「この家」という場所で答えられないで→「来なさい。そうすればわかります」との応え。求道する真理は、キリストとの交わりの中でこそ得られる。

 【適用】求道するきっかけは色々あってよい。音楽だったり、英会話、イベントだったり…しかし考えて戴きたい事→キリストの十字架はあなたに関係があるのか、ないのか?!これが大切な事である。ちゃんと答えるべきなのだ。


V.「あなたはシモンです。ケパと呼びます」(42) 

 @主はシモンに会う前から名前を知っておられた→あなたとあなたの必要も!Aシモンを変える→生来の性格は情熱もあるが、気分は変わり易く非難されると弱い面がある。しかしキリストは基本は変えないでケパ(「岩」)のような強い信念と不動の強さを持つ者に変える、と言われる。

【適用】ある時尋ねられた「性格って変わりますか?」「うーん基本は変わりませんね」がっくりされたが付け加えた。「でも性格は変わらなくても、人生は変わりますよ!」→「誰が惨めと言って自分ほど惨めな者はいない(後に偉大な大統領になるリンカーン)。「自分ほど怒りっぽく、僻み屋でひねくれ者はいない」(後に慈父と言われた新渡戸稲造)変わりうるのだ!

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2019年07月08日

2019年7月7日礼拝メッセージ 「キリストは単なる聖人か?」ヨハネ1章1-5節音声で聴く。

ヨハネ1:1−5     「キリストは単なる聖人か?」       19/7.7

【序】小学生の時にイエス・キリストは三大聖人と習った。釈迦、孔子、そしてキリストだと。しかしヨハネが語るキリストは違う。イエスキリストは一体誰なのか?先週、ヨハネの福音書はキリストが個人を取り扱われる福音書だと語ったが、その個人を取り扱われるキリストとは、どのような方なのか、をヨハネは語る。


T.キリストは神

「初めにことばがあった」(1)とある。そしてこの「ことば」を追って読んでいくと「ことば」「父なる神と共におられ」そして「ことば」=「神」と語り(1)、そしてことばが何者なのか、更にヨハネは語っていく。「ことば→人となり(14)→イエスキリスト(17)だと語る。すなわちキリストは神である、と最も身近にいたヨハネが主張する。この福音書を通してキリストの奇跡や教えがその証をすることになる。嘘では書けない。なぜなら当時の人々がその事実を知っているから嘘を書けばバレるからである。キリストは人となられた神なのだ。

【例証】人間の見える感覚や判断が全て正しいのではない。聖書は神の側から書かれた真理なのだ…(二枚の絵)


U.キリストは万物の創造者

「全てのものはこの方によって造られた」(1:3)

創世記にある天地創造や人間創造は父なる神お一人がされたと思うかもしれないが、キリストとの共同作業である→「このかたによらずにできたものは一つもない(1:3b)ここに慰めがある!

【適用】この世に存在するものは人間にとって良いと思われるものもあるがそうでないと思うものもある。災い、試練、病など。その時ただ辛いだけに思えるが創世記のヨセフも17歳の時には兄たちの虐待を受けエジプトに奴隷として売られた時点だけで見ればただ苦しいだけであったが、後のエジプトでの活躍を見れば意味が分かる。全ては最善をもって導かれた。今だけを見ない事だ!

 

V.キリストは闇を照らす救い主

  この神であるキリストはある目的を持って地上に来られた。それは「光は闇の中に輝いている」(5)つまり闇の中にある人々にいのちの光を与える為なのだ。

【適用】現在、地球上に、人生に様々な闇が我々を覆っている。

明日がどうなるかという不安の闇、希望が見えないという失望の闇、自分の価値を見失って生きる意味が分からないという価値喪失の闇、そして死の彼方に希望を持てない死の闇。この闇を消すにはどうしたらよいか?真っ暗な部屋の闇消す方法は照明のボタンを押すことだ。同じように、人生と心の闇を照らすのはいのちの光であるキリストを受け入れ共に歩む事だ。

「私は世の光です。私に従ってくる者は闇の中を歩まない」(ヨハネ8:12

【証】三浦綾子トラクト[苦難の意味]…【次ページ参照】

三浦綾子トラクトー[苦難の意味]

私は若い時から病の多い人生だった。二十歳を過ぎてから肺結核にかかり、途中カリエスを併発して13年間病床に伏した。心臓が弱く血小板減少症という病気もした。更には直腸癌やパーキンソン病も経験し、他人から「何か祟られているのではないか」「信仰があるのになぜそんな病気にかかるのか」と言われてきた。また善意の人も「あなたは熱心な信仰があるのに、神様は何故あなたを病気にするのでしょう」という人もいた。これらの考えはともに因果応報の思想から来ているのであろう。

こういう考えの中で、私はキリストの言葉を読んだ。

「生まれつきの盲人に対して弟子たちがキリストに尋ねた『この人が生まれつき盲人なのは、誰が罪を犯したからですか、この人ですかそれとも両親ですか。』イエスは言われた『本人が罪を犯したのでもなく両親でもありません。ただ神の御業が彼の上に現れる為です』

この言葉を読んだとき、どれほど大きな慰めを得、力を与えられたか計り知れない。私と同様に慰められ力づけられた人が世界中にどれほどいる事か。様々な苦難にあっている人にとって、このキリストの言葉は多くの人を立ち上がらせるのである。  

この言葉の後、キリストはこの盲人を癒やしておられる。直したことは神の栄光を現わしたことになるであろうが、では癒やされえなかった苦難はどうなるのか、という疑問を持つ人はいるかもしれない。私は癒やされようと癒やされまいと、苦難にあえぐ人の傍らには神がまさしくそこに立っておられると思う。人間はどんな人でも皆死を免れない。もし病気が治らなければ神の栄光を現わすことができないとすれば、全ての人は死んでしまうのだから、一人として神の栄光を現わし得る人はいないということになる。

私は癌になった時、ティーリッヒの「神は癌をもつくられた」という言葉を読んだ。その時文字通り光が放たれたように感じた。神は愛なのである。その愛なる神が癌を造られたとしたら、その癌は人間にとって必ずしも悪いものとはいえないのではないか!「神の下さるものに悪いものはない」私はベッドで何度もそう呟いた。実に意味のある素晴らしいものに思われてきた。

いつしか私は妙な言い方だが「私が度々病気をするのはもしかしたら、神に依怙贔屓されているのではないか」と思うようになった。すると大きな平安が私を満たしたのである。この平安を思うと全く神の御業としか言いようのない気がする」

posted by kbcc at 10:28 | TrackBack(0) | 礼拝