2017年12月14日

2017年12月10日礼拝メッセージ「キリストは単なる聖人か?」ピリピ2章6−11節音声で聴く。

ピリピ2:6−11     「キリストは単なる聖人か?」       17.12.10

【序】小学生時に先生が「世界には三大聖人がいる。釈迦と孔子とキリスだ」と言われ興味をもった。しかし後に分かった事は、先生が挙げた先の二人は聖人だが、最後のキリストは単なる聖人ではなかった。クリスマスシーズン、聖書の語るキリストについて正しく受け留めたい。


T.キリストの本質

神のみ姿であるのに人となられた」(6,7

notキリストは三大聖人の一人で天才的な宗教家で遂に死後神として祀られた。

But神としての栄誉を捨てて人となられたたお方。それがキリスト!

キリストが神であると信じられる理由:

@奇跡…嘘なら福音書自体が当時抹殺されていた筈A言葉…キリスト自身の言葉(父と同一) ユダヤでは日本と違って冒涜は死罪だった。その中でキリストはそう主張されたB人格…愛の極みー奇跡も自分のためではなく人の助けのため C世界的広がり

キリストは神に近い人間ではなく、人間となられた神である。そして大切な事はそのキリストはあなたと無関係な神ではないのだ。


U.キリストの目的

ではキリストが神の御姿を捨ててまで地上に来られた目的は何か?それは「(キリストは)…実に十字架の死にまでも従われた」(8)つまり十字架にかかって私たちを罪の裁きから救うためであった。故に私たちと無関係な出来事ではなかったのである。聖書には「人間には一度死ぬことと死後に裁きがある事が定まっている」(へブル9:27)とあるが、私たちは個々に言葉、思い、行いにおいて罪を犯してきたものである。更には根源的には創造者である神を信ぜず従ってこなかったという原罪の罪がある。その罪を自分では解決できない。そしてキリストはそんな私達の罪の裁きを身代りに受けてくださった、それが十字架である。その為に地上に生まれてくださったのだ。

 【比喩】@芥川龍之介「蜘蛛の糸」のお釈迦さんとキリストの違い…切れてしまう蜘蛛の糸による救いではなく、せめて太いロープにしてもらわないと!A崖から落ちて瀕死の怪我人に対してー釈迦「人生は無常だ、諦観が大事だ」 孔子「がんばれ努力が肝心だ」キリスト黙って崖の底に降りて行きけがを介抱し背負って登って救われた」人の罪と裁きを身代りに負って救いの道を開かれたその愛!


V.キリストの模範

4,5節でキリストは我々人間の生き方の模範だと語っている。その模範とは一言で言えば「自らを捨てる生き方(7,8)である。

獲得する事に終始してきた私たちは、喪失は辛い。しかし元々ゼロで始まった命!全部神から頂いたもの。それ故喪失ではなく与え主にお返しする事、更に信仰的に言えば神にお捧げする事!→「目を捧げ手を捧げクリスマス」(癩者、玉木愛子さん)

神はそのひとり子を私たちのためにお捧げ下さった。私達も「失う」事は「捧げる」ことであるというクリスマスの奥義を知ろうではないか!

posted by kbcc at 09:31| 礼拝

2017年12月04日

2017年12月3日礼拝メッセージ「確かな人生の道しるべ」マタイ2章1−11節音声で聴く。

マタイ2:1−11       「確かな人生の道しるべ」       17.12.3

【序】中1の英語に挨拶の定型文がある(How are you?  Iam fine thank you.And you? Me,too) これを時の米国大統領クリントンに使った元首相がいた。Who are you?と尋ねてしまったのだ。大統領は驚いたが「私はヒラリーの夫です」とジョークを交えて答えた。するとMe,too(私もです)と言ったそうだ…。会話を正しく導くのは難しい、ましてや人生となると至難の業。確かな人生の道しるべがほしいものだ。今日出てくる「東方の博士達」の2千qの砂漠の旅を導いた確かな道しるべは何か?私たちの人生の旅にも通じる確かな道しるべ、それをお伝えしたい。


T.確かな人生に導く「星」

 東方の博士達は救い主に会う為に2千qの旅をしてきたが、どっちを向いても砂漠の砂ばかり。どうして方向が分かるだろう?→神が「星」で導かれたとある(2)

今も神は私たちに確かな人生を歩めるように様々な「星」で導かれるのだ。

 【適用】あなたが教会に来たのはたまたまと思っているかもしれないが、聖書には「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。(ヨハネ15:16とあり、神は今も様々な「星」をもって私達を導かれる。ある人には家族や友人を通し、又様々な集会を通し、そして時には苦難や病や問題を通してでもあるのだ。∴苦難で必要以上に落ち込まない事だ。それはあなたを神の愛と救いに導くための「星」なのだから!


U.確かな人生に導く「聖書」

  東方の博士達はエルサレムまでは星に導かれたが、救い主誕生の場所がベツレヘムである事は「聖書」(5,6)から聞かねば分からなかった。人生の答えと救いを得るには「聖書の言葉に聞く事」が大切なのだ。【証】世界の指導者や有名人のコメント…

○ジョージワシントン「神の存在と聖書がなければ、この世界を正しく治めることができません」

○アブラハムリンカーン「聖書こそ神が人類に与えて下さった最も素晴らしい贈り物です。全ての良きものは聖書を通して私たちに明らかにされています。」

○ニュートン「どのような世界の歴史よりも聖書の中にこそ、より確実な真理が存在しています」

○ガンジー「私の生涯に最も深い影響を与えた書物は聖書です」

 ○三浦綾子「酷く虚無的で懐疑的な人間であった私に聖書は私に生きる方向を変えさせた。聖書の光に映し出された自分の姿は私が知っているよりもはるかに卑小であり傷だらけで醜かった。だがその醜いままの私を拒否せずに受け入れてくれる神の愛を知った」


V.確かな人生は理想環境を求めることではなく目的を果たす事

東方の博士達は人類の救い主がお生まれになる環境が幼児さえ虐殺するヘロデ王の世という悪い環境とは思わなかっただろう。しかし神は彼らを守り安全に導かれた。そして彼らは宝物を捧げる目的を果たした。ここに励ましとチャレンジががある。

【適用】私達は理想環境を求め易い。しかし求めるべき答えは理想の環境でなくてよいのだ。大切な事は、理想の環境を求めることではなく、目的を果たすことなのだ。たとえ劣悪環境の中でも、東方の博士達のように目的を果たすことだ。そうすると「この上ない喜び」が博士たちにも臨んだようにあなたにも臨むであろう。

posted by kbcc at 11:10| 礼拝

2017年11月27日

2017年11月26日礼拝メッセージ「それでも人生は変えられる」Uコリント5章7節音声で聴く。

Uコリント5:17     「それでも人生は変えられる」       17/11.26

【序】今まで多くの方々の生き様、死に様を拝見してきたが、つくづく感じた事は「人は生きてきたように死ぬ」という事だ。普段から感謝をよくする方は、死ぬ時も周りに感謝して死んでいかれ、普段から人に当たり散らしている方は死ぬ時も家族や病院に当たり散らして死んでいかれる。普段からお金の事ばかり心配している方は、死ぬ時も預金通帳を心配して死んでいかれる…。「死ぬ時だけはカッコよく決めたい」というのは残念ながら不可能に近い。それを思えば、後々のために今を豊かな恵みを感じ生きていく姿勢が大事だ。しかし今を豊かに生きるのも至難の業である。しかしそんな私たちの今を変えて下さるお方がいる。それを伝えたい。

T.素晴らしい活躍をした人たちにも浮かばれる日々があった証

・「31才になって私に望ましいのは死だけです」(看護士の鏡ナイチンゲール)

・「誰が惨めだと言って自分ほど惨めな人はいない」(黒人奴隷解放で有名なリンカーン)

・「私ほど怒りっぽく僻み屋でひねくれた者はいない」(教育貢献&欝新渡戸稲造)

この3人は歴史上素晴らしい貢献をした方々だったが、初めからそうではなかった。彼らも暗い性格や環境に悩み自信喪失の日々があったのだ。しかし変えられた!

それは彼らの暗い人生を輝く人生に変えるお方の情報を聞いて従ったからだ!

U.二種類の情報

1.「外から内に入る情報」

この情報の中で最も悪影響をもたらすのは劣等感に支配される事だ。劣等感とは何か?劣等感とは、他人より劣っているという事ではない。劣っていることを恐れる心である。聖書の例で言えばダビデに対するサウル王の態度である。サウルは王でありダビデは部下。サウルには兵が何万とあるのに、ダビデはたった五百。だのにダビデを一匹の蚤を追い続けるように追ってやがて身を滅ぼす。なぜ?それは女たちが「サウルは千、ダビデは万」と歌うのを聞いたからだ。「外からの情報」に支配されて妬みと恐れで身を滅ぼしたのだ。

2.「上から内に入る情報」

大切なことは「外から内に入る情報」に耳を傾ける事をやめ、「上からの情報」つまり創造者である神のメッセージを聞き、従う生き方を始めることだ。なぜなら神はあなたをあるがままで愛し価値づけ、あなたを思う存分用いてくださる情報を耳と心に入れてくださるからだ。「わたしの目にはあなたは高価で尊い」(イザヤ43;4

V.何が「人生を変える」のか?

Uコリント5:17によれば、「だれでもキリストの内にあるならその人は新しく造られた者です」と記している。誰でも、いかなる状況でも、である。

【証】1126日付のクリスチャン新聞の記事…拉致被害者の横田めぐみさんの父滋さんが114日洗礼を受けた。妻の早紀江さんによれば「めぐみがいなくなった時、主人は『神も仏もあるものか』と言いながら海辺や街をさ迷い歩き続けた。その時からあらゆる宗教を拒み。キリストのキの字も言おうものならもの凄く大きな声で怒っていた。そんな主人が洗礼を受けさせて戴いた。国分先生が「神様を受け入れますか」というと「はい」と答えていた。何が起こっているのか分からないといった感じで、こんなことがあるんだ、不思議なことが一つ一つ怒っているんだなあと本当に感謝で一杯です」と。

人生何が起こるかわからない。。→Uコリント5:17は本当なのだ。

posted by kbcc at 15:47| 礼拝