2018年01月15日

2018年1月14日礼拝メッセージ「ハリチリ合戦」ルカ6章41、42節音声で聴く。


ルカ6:41,42        「ハリチリ合戦」          18.1.14

【序】顔にある目は自分の顔は見えないが相手の顔はすぐ分かる。同様に欠点も自分よりも他人の方が見え易い。果たして欠点かどうかも定かではないのに、直ぐに「あんたは○○」と批判する。すると相手も「キミも△△」とハリチリ合戦が展開される。どうしたものか…だからといって全く言わないのもストレスだ。神の御心を聞こう。


T.相手には「塵」で、自分には「梁」である意味

聖書的に言うなら人間は等しく罪人であるので、自分の方が必ず家の横柱のような大きな梁をもっているというのではない。どちらも塵なのだが、相手の塵を目ざとく見つけ、叱責し、時に怒りを爆発させる。或いは怒りを心にしまいこんでいるような場合、自分の目には塵から始まっていても大きな梁のように増大してしまう故の表現だ。だから相手に対する批判的な思いや怒りを持ち続ける事は罪を増大させることになる。


U.では相手の中の塵に気づいた時にどうしたらいいのか?

塵が怒りによって梁のように大きくなる現実を知る時、成すべき事をキリストは教えられた。それは「先ず自分の目から梁を取り除きなさい」(42a)

つまり、相手を責める前に先ず自分の吟味から始めよ、である。とかく相手の欠点は自分の欠点よりも早く気付いてしまう。だからといって自分の欠点がない訳ではないのだ。相手の欠点に気づいた時、自分はどうなのかと自己吟味から始めるべきなのである。これを怠ると間違いを犯しやすい。

【例】かつて滋賀県の大火事で…警察は放火犯として5才と6才の子供とし、児童相談所に通告処分とし捜査を打ち切った。その後はいじめの連続。子供の家族はお詫びにと杉百本を市に出したが、県が建てた住宅に入ることを断られ、納屋で家族は身を寄せ合って過ごさねばならなかった。救援米も二回を一回に削られ、子供が小学校に入ると「家を返せ」と廊下を引きづられ、運動会で一等を取ると「遠慮しろ」と怒鳴られ、終に一人の子供の母は寝込み「この子が不憫で」と繰り返しながら死んでいった。もうひと家族はいたたまれず転居…。7年後ある窃盗犯が刑務所でその火事の放火を自供した!…いったいこの子供たちの心の傷を誰が償ってくれるだろうか! 間違った裁き合いがもたらした余りに痛ましい出来事ではないか!

「聞くには早く、語るには遅く、怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現するものではありません」(ヤコブ1:19,20を肝に銘ずべき。


V.相手の塵を取り除く仕方

現代の様に人間関係が希薄な時代は、とかく相手の欠点に気づいてもだんまりで

関わろうとしないか、逆に切れて破壊的な行動に出るかである。聖書的な愛の態度を祈り求めるべきである。キリストは「…そうしてこそ兄弟の目の塵がはっきり見えて取り除くことができる」(42:b)と言われた。またガラテヤ6:1にも「柔和な心で正してあげなさい」とある。単に相手を裁いて罪に定めるのではなく、愛の心から自分も同じ重荷を負うつもりで愛の忠告をするのは尊い事である。大切なのは兄弟愛から出た言葉であるかどうかだ。これが聖書を学ぶ者の間で行われるなら麗しい教会、麗しい家庭、麗しい人間家系が結ばれるであろう。

posted by kbcc at 13:24| 礼拝

2018年01月09日

2018年1月7日礼拝メッセージ「破れ口に立て」エゼキエル22章30節音声で聴く。


エゼキエル22:30        「破れ口に立て」         18.1.7

【序】どんな人もパーフェクトな人はいない。何らかの「破れ口」をもっている。家庭の破れ口、仕事上の破れ口etc私たちは神の愛を知った者として、その破れ口に立って祈りや御言葉や愛の働きを通して「修理する事」を神に求められているのであるが、時にその務めに尻込みし破れ口に立つことを怠る事があるのではないか?エゼキエルもそうだった。破れ口を知らないのではない、知っているのだが「破れ口」に立とうとしなかった。なぜ?それはこれから語るところの間違った考えに捉えられてしまっていたからであった。その考えは、私達が何かに取り組もうとする場合にも同じような理由で尻込みする場合と共通している。新年に当たり心したいものである。


1.不幸の責任転嫁(18:1-4)

○人々の言い分

「父が酸い葡萄を食べたので子供の歯が浮く」(18:2)            

バビロンでの惨めな捕虜生活は父の罪の所為!だからどうしようもないと居直る。

○神の言葉

「父の命も子の命も私のもの。罪を犯した者はその者が死ぬ」(4)

 この意味は自分の負ったものを他人の所為にせず自己責任で生きよとの意味。神が人に命を与えられるとき、強さだけではなく弱さをも併せて造られた。ハンディや劣悪環境もあるかもしれないが、それは神の愛と慰めや新しい力を求めるためであり、その弱ささえも祝福の材料とされる。だから言い訳や責任転嫁して終わらないようにしよう。しっかり受け止めようではないか!


2.苦々しい心(3:14,15)

 エゼキエルは神から御言葉を語る使命を託された時「苦々しい思い」(14)で7日間呆然と留まっていた。それは務めに喜びがうせ不満一杯だったからである。

 仕事ができても喜びや感謝が欠如すると、継続的な喜びある仕事や奉仕ができない。 

 【証】開拓6年で自立したものの相変わらず建物は粗末なまま、あれほど経済を顧みられて感謝だった塾のバイトも未だにフルタイムで働けない不満、あれほど金剛に導かれて感謝だったのに金剛という字が嫌い。金に剛なんて…しかし詩篇16:6で苦い心が全く変えられた。「喜びをもって主に仕えよ」7(詩篇100:2)


3.未来は祝福されるという信仰の欠如(37:1-5

 ○エゼキエルー干からびた骨しか見えない

 ○神―その骨々が生きた大群衆となるのをご覧になる

 神はエゼキエルに「これらの骨は生き返ることができるか」と答えをご存じなのに問われた。これは彼に未来に希望があるという信仰をもたせるためであった。人間というものは本当は未来に希望を持ちたいのに、「凶」の預言に捕らえられ易い。

多くの方が未来の「凶」を恐れるのだが、根本から言うと信仰者にとって最大の「凶」はキリストが十字架で身代わりになって「呪われた者となって」(ガラテヤ3:13)下さった故に凶は終わったのだ→未来の祝福を信じていいのだ! 

posted by kbcc at 14:15| 礼拝

2018年01月04日

2018年1月1日元旦礼拝メッセージ「見よ、わたしは新しい事をする」イザヤ43章12-21節音声で聴く。


イザヤ43:18,19     「見よ。わたしは新しい事をする」    2018年元旦  

【序】主題を「見よ。わたしは新しい事をする」としたが、選んだ理由は、昨年は不安な年だったから元旦くらいは新しい事を期待したいからという理由で選んだのではない。「新しく生きる」というのは、聖書に従って生きようとする者に誰にも与えられる特権であるからだ。それで、この実現の道についてお語りしたい。


T.過ぎ去った事は忘れなさい

昨年を振り返る時、失敗や罪や愚かさもあったかもしれないが、神は「先のことを思い出すな」(18)と言ってくださる。その根拠は→同43:25

神はあなたの過去を洗い流し帳消しにして再出発をいつでも可能にして下さる。人間は忘れてはいけないことを忘れてしまい、忘れるべきことをいつまでもしつこく引きずるものである。自分のことも他人のことも帳消しにしようではないか。

※赦された罪や愚かさは忘れなさい。赦された恵みこそ覚えなさい。

U.あなたの計画以上の神の最善計画を信じなさい

神は「新しい事をする」(19)と言われる。詳しく言うと→「荒野に道を、荒地に川を設ける」(19b)と語られている。つまり人生の荒野に考えられない様な「歩むべき道と潤いの水」を開かれるというビジョンをもっていて下さるのだ。人はそう言われて中々信じ難い面をもっている。だから「見よ」と強調されている。

【証】夫に先立たれたケニアの夫人の証…広い土地を遺産相続したが相続税の支払いに悩んでいた。しかし相続した土地は山で固い岩盤で畑にも牧畜にも適していず、経済的に困り果てていた。この山さえ平地であったら畑にもできるものをと嘆いていたが、マルコ11:23,24の「山に向かって移れと言えばそうなる」を読み、毎日山に行きそう命じたが何の変化も起こらなかった。4か月後、政府の役人が来て「この山を売ってくれませんか?実は高速道路を作りたいが、お宅の山の中に莫大なアスファルトがあることが分かりました。400万ドルでいかがですか?」山が動いたのである!更にアスファルトを除いた山は土だけになり返してくれた。畑になった! 

V.低い自己評価を改めなさい

    「ジャッカルやダチョウもわたしを崇める」(20)

ジャッカルは弱い動物である。百獣の王ライオンの食べ残したものをハイエナが食

べ、それを食べ残したものをジャッカルが恐々食べる。だちょうも一応鳥だが羽が

あっても空を飛べない。ドラム缶のような図体でホースのような長い首でびっくり

する様な目玉を持ちアヒルのよう口、可愛いかと思うと脚は人を殺すほどの不気味

な爪がある。お世辞にもきれいな鳥ではない。しかしそのジャッカルもダチョウも

神の名を神の恵みにあずかる。だから自分を卑下するな、と神は言われる。なぜな

「わたしの目にはあなたは高価で尊い」(43:4)だから。

【証】ヘレンケラーを導いたのは孤児院で育ったサリバン先生だが、もし彼女が父親から捨てられたのを恨み、低い自己評価のまま、どうせ私の運命はこうなのよ、と僻み続け、教会からの訪問団の話にも心を開かなかったら、彼女の人生は闇に葬り去られたままで終わっていた事になる。しかし、彼女は聖書の話に素直にキリストを救い主と信じたのであった。それがやがて彼女しかできない三重苦のヘレンケラーとの出会いに導かれ、今までのすさんだ荒野の人生に命の水を注ぐような生き方が与えられたのである。

※低い自己評価を捨てて神の恵みを素直に信じてこの一年を生きていこうではないか!

posted by kbcc at 09:24| 礼拝