2016年02月28日

2016年2月28日主日礼拝

「信仰は過去を変える事ができる」創世記50章20節21節を聴く。


 

創世記50:20、21 「信仰は過去を変える事ができる


【序】今日のような主題を付けると多くの方は「自分も過去に色々傷があり時にそれで悩まされて中々明るい未来を描けない。過去を変えられるなら変えたいが、過ぎ去った出来事を変えるなんて不可能ではないか?」と言われる。しかし聖書の福音はそれを可能にし、未来に希望をもって生きるように導く。それをお伝えしたい。


T.どのようにして信仰が過去を変える事ができるのか

過ぎ去った時間は取り戻せないのだから、過去の事実がなくなったり変えてしまう事は出来ない。しかし一つだけ過去を変えられる道がある。それは過去にあった出来事の意味が変えられるという事だ。創世記50:20のヨセフが兄達に語った言葉「あなたがたは私に悪を計りましたが…神は良い事の計らいとされました」。兄達から酷い虐待を受けたヨセフであったが、その悲劇を「良い事の計らい」であったと恵みの意味に変えられている。これこそトラウマの解決であり解放である。

【証】高3生時の父の事業の倒産や交通事故は不運と僻みで一杯の過去の出来事であったが、今振り返ると、それによって私と父や母は尊い救いを経験し天職と思える牧師への道が開かれたことを思えば、すっかり過去の意味が変えられたのである。信仰は過去の意味を変え得るとは私の体験であり、あなたにも起こり得ることなのだ。


U.過去を変えさせるものは何か

 「神はそれを良い事の計らいとされました」→神が変えてくださるのである!

私たちはなんとか自分の力で思い方を変えようとする。「積極的思考」もその一つ。しかし自分に土台を置いている限り限界がある。自分は変わり易いからだ。ヨセフは過去の意味を恵みに変えてくださったのは「神」であると語っている。この神は物言わぬ偶像の神ではない。万物を創造し愛をもって治め導く生きた神である。ヨセフはこの神を信じ続けたのである。そして忍耐して13年後、神は道を開きエジプトでの活躍に導かれた。ヨセフに学ぶのは苦難の時にも神を信じ続けた事である。次の御言葉を受け入れて神を信じる人生を歩んで頂きたい。

→ローマ8:28「神は万事を益に変える」


V.過去からの解放がもたらすものは何か

恨みからの解放、優しい人に変えられる→ヨセフの生き方(21)

【証】「20世紀最大の奇跡」をご存じか?米国に一人の少女がいた。父はアルコール依存症。お酒が入ると母を殴る蹴る。終に母は衰弱死してしまう。友人に発見された時、母の両手には3歳の弟と彼女が握られていたという。弟は栄養失調で死亡。彼女一人が残されたが、父は見捨ててしまう。そして孤児院に入居。人間不信が強くなり統合失調にもなる。しかし数年後教会から訪問団があって、生まれて初めてキリストの十字架の話を聞き、キリストを救い主として受け入れる。恨みに変えて祈りが生まれ、聖書に聞く人生が始まる。20歳で孤児院を巣立つ日祈りを捧げる「神様、私よりももっと不幸な子供のために私をお使い下さい」やがて導かれた家庭に見れない、聞けない、話せないという三重苦の少女がいた。ご存じだろう、ヘレンケラーだった。導いたのはサリバン先生であった。過去のトラウマからも解放される。否、それさえ恵みに変えられるのだ。


posted by kbcc at 12:48| 礼拝

2016年02月21日

2016年2月21日主日礼拝

「善悪を知る木」創世記2章15−17節を聴く。

創世記50:20、21 「信仰は過去を変える事ができる

【序】今日のような主題を付けると多くの方は「自分も過去に色々傷があり時にそれで悩まされて中々明るい未来を描けない。過去を変えられるなら変えたいが、過ぎ去った出来事を変えるなんて不可能ではないか?」と言われる。しかし聖書の福音はそれを可能にし、未来に希望をもって生きるように導く。それをお伝えしたい。


T.どのようにして信仰が過去を変える事ができるのか

過ぎ去った時間は取り戻せないのだから、過去の事実がなくなったり変えてしまう事は出来ない。しかし一つだけ過去を変えられる道がある。それは過去にあった出来事の意味が変えられるという事だ。創世記50:20のヨセフが兄達に語った言葉「あなたがたは私に悪を計りましたが…神は良い事の計らいとされました」。兄達から酷い虐待を受けたヨセフであったが、その悲劇を「良い事の計らい」であったと恵みの意味に変えられている。これこそトラウマの解決であり解放である。

【証】高3生時の父の事業の倒産や交通事故は不運と僻みで一杯の過去の出来事であったが、今振り返ると、それによって私と父や母は尊い救いを経験し天職と思える牧師への道が開かれたことを思えば、すっかり過去の意味が変えられたのである。信仰は過去の意味を変え得るとは私の体験であり、あなたにも起こり得ることなのだ。


U.過去を変えさせるものは何か

 「神はそれを良い事の計らいとされました」→神が変えてくださるのである!

私たちはなんとか自分の力で思い方を変えようとする。「積極的思考」もその一つ。しかし自分に土台を置いている限り限界がある。自分は変わり易いからだ。ヨセフは過去の意味を恵みに変えてくださったのは「神」であると語っている。この神は物言わぬ偶像の神ではない。万物を創造し愛をもって治め導く生きた神である。ヨセフはこの神を信じ続けたのである。そして忍耐して13年後、神は道を開きエジプトでの活躍に導かれた。ヨセフに学ぶのは苦難の時にも神を信じ続けた事である。次の御言葉を受け入れて神を信じる人生を歩んで頂きたい。

→ローマ8:28「神は万事を益に変える」


V.過去からの解放がもたらすものは何か

恨みからの解放、優しい人に変えられる→ヨセフの生き方(21)

【証】「20世紀最大の奇跡」をご存じか?米国に一人の少女がいた。父はアルコール依存症。お酒が入ると母を殴る蹴る。終に母は衰弱死してしまう。友人に発見された時、母の両手には3歳の弟と彼女が握られていたという。弟は栄養失調で死亡。彼女一人が残されたが、父は見捨ててしまう。そして孤児院に入居。人間不信が強くなり統合失調にもなる。しかし数年後教会から訪問団があって、生まれて初めてキリストの十字架の話を聞き、キリストを救い主として受け入れる。恨みに変えて祈りが生まれ、聖書に聞く人生が始まる。20歳で孤児院を巣立つ日祈りを捧げる「神様、私よりももっと不幸な子供のために私をお使い下さい」やがて導かれた家庭に見れない、聞けない、話せないという三重苦の少女がいた。ご存じだろう、ヘレンケラーだった。導いたのはサリバン先生であった。過去のトラウマからも解放される。否、それさえ恵みに変えられるのだ。



posted by kbcc at 13:00| 礼拝

2016年02月14日

2016年2月14日主日礼拝

「天地創造の完成」創世記2章1-3節を聴く。

創世記2:1−3     「天地創造の完成」       

【序】キリスト教が一般社会に大きな影響を与えている一つに一週間というカレンダーの採用がある。実は日本では

明治5年まで半月に一日の休みであったが、文明開化で政府要人達が西洋を歴訪して採用した。でも「なぜ7日なのか、又日曜日はなぜ休むのか」については深く考えなかった。今日の箇所は、その元の始まりも教えられる所である。


T.神は事を完成するお方である

「こうして天と地とその全ての万象が完成した」(2:1)

一口に完成といっても並大抵の業ではない。天地宇宙、全ての生き物、食の備え、そして人間創造という壮大な業を挫折無く、美しく見事に完成された。

【適用】神は私達の為にも事を成し遂げて下さるという事だ。「神は私に関わる全てのことを成し遂げてくださいます」(詩篇138:8)未完成の事、失敗と思われる事、祈りや願い等、私に関わる事を主が成し遂げて下さる!∴未完成の事で思い煩わない事だ。


U.第七日目は祝福された聖なる日である

不思議に思うのはわざわざ「休みの日」が記録されていることである(2)職場での仕事日誌には日曜日の「休み」の記録は書かない。仕事的に関係ないからである。しかし聖書は「第七日目に休まれた」と記録し、その休みの日を「祝福し、この日を聖とされた日」(2:3)と敢えて記す。つまり今でいうなら日曜日は単なるお休みの日ではなく、私達が仕事から離れて神の祝福を受ける神の聖なる安息日という事だ。それ故、日曜日に教会に行って礼拝するのは聖なる神の祝福を受ける日なのだ。

私の初期の信徒の時代…日曜日は礼拝のために来なければならないとか、何もなければ来ると考えてしまっていたが、この聖なる日は神が人を祝福してくださる特別の日。心に光を受け、祝福を受ける特別の日なのだ。

【証】米国ゴールドラッシュの開拓時代…金採掘を目当てに東海岸から西海岸に向けて日曜日も休まず馬車を走らせ続けた人々がいた。しかしあるクリスチャン家族は日曜日には安息し馬を休ませ家族も賛美歌を歌い礼拝を捧げて旅を勧めた、最初にたどり着いたのは他ならぬクリスチャン家族であった。


V.もう一つの完全な安息地がある

 この安息は地上では日曜日であるが、新約聖書を見ると、もう一つのしかも完全な安息の場所があり、そこに入るよう勧められている。へブル4:1.9−11

ここにいる全ての人が完全な安息である死後行ける天国の安息に入ることができるよう励まし合いたいものだ。又信者も挫折しないで共に行きたいものだ。

【パンくず牧師行状記】天国の夢を見た。素晴らしく麗しい世界。道を歩くと大小の塚があった、天使が「あれは地上で行った人たちの報いの塚」知っている名前。教会では目立たぬ人だが大きな塚!そうかと思うと口では派手だがその人の塚は小さかった。名前が消えている束もあった。途中で信仰から外れた人の塚という。「私の塚はありますか?」「はいもう少し向こうです

そこで目が覚めた。皆キリストを信じ続けて天国に行きましょう!

posted by kbcc at 13:03| 礼拝