2016年03月27日

2016年3月27日主日礼拝

「キリストの復活」マタイ28章1−10節を聴く。




マタイ28:1−10       「キリストの復活」

【序】私はクリスチャンになるまで「人生は死んだら終わり」思っていたが、信仰をもってからは「死んでも生きる」という永遠の希望を見出す人生を与えられた。更に牧師になってからは、キリストの復活が人生の様々な面に深い希望を与えるのが分かった。正にキリストの復活は人類に対する大きな希望への招きなのだ。イースターの良き日。キリストの復活が私達にもたらす希望についてお語りしたい。


.キリストの復活は人生最大の恐れ―死を打ち破る希望をもたらす

「ここにはおられません。前から言っておられたように甦えられたからです」(6) 聖書はキリストが死人の中から甦られた!と語る。でも何が信じられないと言って、死人が甦るなんて有りえないと思うだろう。事実死は人類の無力を突きつける最大の恐怖。だから死人の甦りは有りえないと思う訳だ。又世界最大の宗教が非科学的教えをするなんて伝道上損だという人もいる。しかしどの福音書もキリストの復活を力強く語っている。だからこの2千年間、復活を合理的に解釈しようとする試みが成されてきた。間違った墓地?作話(13)?文学的技法?…等々。しかし復活を否定できないのだ。@弟子達の殉教→作り話なら命を懸けての殉教は説明がつかない。A2千年のキリスト教の拡がり→嘘ならこうは行かない。B文学的表現では世界中の信者の臨終での永遠への確信は到底不可能。教会が復活というメッセージを作ったのではなく、復活という事実が教会を作ったのである。この復活の事実の故にキリストの約束=ヨハネ11:25が真実となる。

.キリストの復活は人生再出発の希望をもたらす

「ガリラヤで会おう」(7.10)と言われる。なぜガリラヤなのか? ガリラヤはペテロ達がキリストと初めて会った場所。主はもう一度原点に戻って人生をやり直す道を示されるのだ。弟子達は3年半キリストと人生を共にし、今まで見たことも聞いた事もない体験をしてきた。しかし、ここ一番という時に信仰を働かせず結局自分の知恵や力により頼み主を裏切ることさえしてしまった。しかしそんな時主イエスは「ガリラヤからスタートしよう」と励まして下さる。主は過去の罪と失意に陥っている彼らに、もう一度再出発のチャンスを提供される。ガリラヤは神にあっては誰でももう一度新しくやり直せる事を示す所!

【適用】あなたは過去の罪や弱さや失敗で失意にあるのではないか?また信仰をもってはいても結局自分の知恵と力に頼ってきた。そう嘆いているなら、復活した主は言われる。「もう一度原点に戻ろう!わたしは会う」と。

.キリストの復活はこれから先の不安に希望をもたらす

9節「おはよう」の言葉は口語訳では「平安あれ」。弟子達は師を失いこれから先どう生きるか不安であった。キリストは先の心配で不安がる弟子達に寄り添い、平安を祈って下さるのだ。私たちもこれから先の事で不安に陥るかもしれないが、死でさえ打ち破った方が共にいて下さる。感謝しよう!

【証】不幸な生い立ちのために全く将来に希望を見言い出せなかった青年の救い…


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2016年03月20日

2016年3月20日主日礼拝

マルコ15:21 「人生と十字架」 「人生と十字架」マルコ15章21節
を聴く。



マルコ15:21       「人生と十字架」

【序】不思議な思いになるのだが、もし私が金剛に導かれなかったら、皆さんを兄弟姉妹と呼ぶ特別の関係にはならなかっただろうし、また皆さんもお互い知らない者同士であったのではないかと思う。真に出会いは不思議なもの。今日出てくる人物は「クレネ人シモン」。彼とキリストとの「出会い」は予期しない形で始まり、関わりたくはなかったものだが、後に素晴らしいことになる。私たちの関連の中でメッセージを伝えたい。


.人生に偶然はない

クレネ人シモンは北アフリカの田舎から仕事で?エルサレムに来た。たまたまエルサレム滞在中にユダヤ最大の祭り「過ぎ越の祭り」に出会う。凄い人垣をかきわけ前に出たところ十字架を負われたキリストが見えた。何とそのキリストがよりによって自分の目の前でバッタリ倒れる。そして十字架を代わりに負わされる羽目になった!しかしこの出会いが元で後にキリストによる救いを体験する。この不思議な出会い→前日でも翌日でもダメ。しかもキリストが疲労困憊で倒れたその場になぜか立っていた!偶然では説明つかない出会い! 特に主との出会いは神の計らい!

【適用】あなたが教会に来たのは様々なきっかけがあっただろう。しかし真の理由はヨハネ15:16!→「わたしがあなたを選んだ」

.人生には予期せぬ十字架を負わされる時がある

キリストが疲労困憊でバッタリ倒れた時、ローマ兵士は目の前のシモンに「むりやり」十字架を代わりに負わせた。迷惑!そう思った事だろう。しかし救われて後にそれが最も栄誉ある奉仕であったことがわかった。十字架を負うとは?

【適用】ノーベル賞のシュバイツアー博士は30歳の時学者、医者、音楽家として栄達の道が開かれていたが「命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために命を失う者はそれを見言い出す」(マタイ16:25)を通して自分の思いを捨て愛の道を歩む決心をした。このように己を捨て愛の道を負っていく事を十字架を負うという。神にあっては最も栄誉の道である。あなたにも予期しない負わされたような十字架があるのではないか?誰かの世話しなければならないという十字架。重い責任を負うという十字架。病気や様々なハンディを負う十字架、悲劇という十字架…当初のシモンのように関わりたくない思いがあるかもしれない。 しかし知るべき事は十字架を負わされるのは損な役ではない。それは神があなたに託された最も栄誉の道である。神のあなたに対する信頼の印である。心して進もう

.人生の十字架は後で意味が分かる

聖書はシモンを紹介する時「アレキサンデルとルポスとの父」と語る。→記録するのは息子の名前が当時読者がよく知っていたクリスチャンであったからだ。つまりシモンは、家に帰って聖書を求めクリスチャンになって、子供達に救いを伝えた事が分かる。信仰をもって後に、十字架を負う有り難さが分かった。だから結論を早まるな!ヨハネ13:7

【証】レスリー・レムキさん現代の奇跡…十字架を負う不可解も後で分かる!

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2016年03月13日

2016年3月13日主日礼拝

「あなたはどこにいるのか」創世記3章8−13節を聴く。

創世記3:8−13       「あなたはどこにいるのか」

【序】悪魔の誘惑に負けて善悪を知る木の実を食べてしまったアダムとエバ。悪魔の言った通り神のような賢さを得たのか?果たしてどんな現実が待っていたのか?また戒めを破った人間に神はどうなさったのか?学んでみたい。


.善悪を知る木の実を食べた人間の実際の姿

二人が裸であることに気づいて無花果の葉でお粗末な腰の覆いを作ったのだが、二人が神に語った姿から人間の赤裸々な姿が現れてくる。

1 嘘をついた

       

「裸なので隠れました」(10)

「裸」は嘘ではなく本当だが、元々裸だった訳だから「隠れたのは裸だから」ではなく、隠れたのは神の命令に背いたからばれるのが怖かったから。自分の身を守るための自己防衛の嘘…お互い心当たりがあるのでは。人は昔も今も変わらない。

2 謝らない

        

「神様ご免なさい」が先に来なければならない筈だが、後にも先にも謝罪の言葉はない→【問】人間の罪で、犯した罪と、罪を謝らない罪とどちらが大きいか?

罪を犯してしまう弱さを持つ人間がせめてもあるべき姿は罪を謝る事の筈。

3 責任転嫁

○アダム→エバの所為。(「この女が」と言う。かつてのラブコール(2:23)はどこに?更に神の所為にさえする→「あなたが私のそばに置かれたこの女が…私にくれた」(私は求めもしなかったのに?)

○エバ→蛇が騙した。

この三つの罪は今も尚横行している罪!しかしより重大なのはこの罪を生みだした根本的な問題は何かという事である。それは人間を造って下さった神の言葉に従わない道を選んだという根本的問題である。神に従わないこの罪を原罪という。人間の罪は殺人や盗みもまた嘘も謝らない事も責任転嫁も皆この原罪から生まれたものである。故に表面的な罪の反省をしてもまた繰りかす私たちはこの根本的罪を知って神との関係を回復する必要があるのではないか!


.神がしてくださったこと

1. 神の語りかけー「あなたはどこにいるのか」(9)

人間の側に100%の非があるのに!どこまでも人間を捜し求めて救いに入れようと呼びかけて下さる神。今も尚神は人間に呼びかけていて下さる。大自然の素晴らしさを通し、聖書を通し、祈りを通して神は人間を救うために「どこにいるのか」と捜して下さる。今も昔も変わらない「あなたはどこにいるのか?!」と。

       

2. 神による救い

人は罪を犯した後恥を知り、無花果の葉で身を覆った。何とその場しのぎのお粗末な解決。それに対して神のして下さった事は「皮の衣を作り着せて下さった」(20)この意義は、皮の衣がより強いという表面的なこと以上に、人間の罪のために動物が身代わりの犠牲になっている事!→血が流されるキリストの十字架

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