2016年09月25日

2016年9月25日主日礼拝「“不幸”に関する不毛の質問」ヨハネ9:1-3

音声で聴く。

 


ヨハネ9:1-3  「“不幸”に関する不毛の質問」  



【序】「ネガポ辞典」をご存じだろうか?これはネガティブな言葉をポジティブに言い換える本。例えば「不味い料理」→「独創的味付け」、「散らかった部屋」→「ワイルド・ディスプレイ」、「顔に出てきた皺」→「ビンテージ・ライン」、「作り笑い」→「筋トレ」。思わずホッとして笑ってしまう。そもそも著者は誰?実は北海道の女子高生!言葉というのは人を傷つける凶器にもなるし、人を癒す薬に薬にもなる…今日出てくる盲人の話には、今日も蔓延する言葉による凶器もあり、人を生かし癒す暖かい言葉もある。お伝えしたい。



 



T.“不幸”に関する不毛の質問(1,2)



生まれつきの盲人について弟子たちはキリストに質問した→「先生、彼が盲目に生まれついたのは誰が罪を犯したからですか」(2)ここに古今東西、誰にもやってくるいわゆる不幸や災いに対する不毛の考えがある。



1.不毛の質問−誰のせいか?

この質問には、必ず自分の不幸には「犯人」がいる。私は誰かの所為でこうなった被害者だ、という見方を不動の事実としてしまう考えである。

確かに誰かのせいで酷い目にあったという事柄はある。しかし分けないといけないのは「誰かの所為で起こった事柄」と「その事柄の後の人生を作った責任」は別であるということ。辛い事柄の後にどんな人格になったか、どんな人生を歩んだかを決めるのは、誰かではなく、自分自身であるからだ。誰かの所為でこうなったという考えにしがみついていると、新しい人生の展望は開かれない。それどころか自分の気になるあの誰かに支配されたままになってしまうのだ。



2.不毛の質問―いつになったら?

いつになったらこの問題は解決するのか?いつになったら病気は治るのか?

いつになったらあの人は変わってくれるのか?この「いつになったら?」という質問も人を不幸にする問いだ。というのはこの問いは自分ではどうにもできない事に、自分の人生の土台を置いているからだ。私たちは自分でどうにもできない事が少なくても二つある。@過去を変える事。A他人を変える事。これにこだわっていると、自分ができる事をしなくなってしまうのだ。自分ができないことを手放し、今自分ができることに集中していくことこそ、人生が変えられていく道である。そして自分ができる事というのは、案外身近にあるものなのである。



 



U.不毛の質問から解放するキリストの言葉



「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神の業がこの人に現れるためです」(3)

あらゆる「不幸」と思える事柄は、神の業が現れるための舞台だというのだ。私たちが人生に対して「なぜなんだ!いつまでなんだ!」と怒っている時、それは神に対しての怒りとほぼ同じである。そして怒りの正体の根底にあるのは、神よりも私の怒りが正しいという前提である。しかしどんな時でも神は人よりも正しく、また人よりも憐れみ深いのである。そして祝福の人生に作り変えるのである。



【証】不幸な環境に育った青年の作り変えられた祝福の人生の証…



不幸な生い立ちの青年の救いの証

有る教会の礼拝に一人の青年が不安そうに出席した。長い髪、青白い顔、髪の間から疑い深そうに牧師を見つめる姿に、牧師は何か暗い事が潜んでいるのを感じた。礼拝が終わっても帰ろうとしない。夕方まで教会にいたがお茶を勧めるとポツリポツリと身の上を涙ながらに話しだした。それは非常に不幸な話だった。

彼がまだ母親のお胎にいたとき、母親は別の男性と一緒に生活を始め、やがて彼が生まれ、後に弟と妹が生まれた。彼だけが父親が別ということで、悉く差別され、時に虐待を受けた。中学を出ると、我慢できず家を飛び出し、北陸から大阪にやってきた。何とか仕事にありついたが、もともと人間不信があり、仲間と上手く関係が持てず、対立し、職場を転々とした。傷害事件を起こし「臭い飯」も食った。23歳になった時、自分には誰も心を分かち合う友がいない孤独に耐えかねてノイローゼになり、ウイスキーと睡眠薬を飲まなければ眠れない状態になって教会に来たのだった。

牧師は話を聞いた後、次のように聖書の話をした。

1. この世には不幸な境遇を作り変える愛の神がおられ、青年を愛していること

2. その愛の神は人を罪と悲しみから救うためにイエスキリストをこの世に遣わして十字架で罪の赦しと救いの道を開き復活をもって死に打ち勝たれたこと

3. キリストを救い主と信じるなら、不幸を超えて新しい祝福された人生が始まること

その話を終えると彼は素直にキリストを救い主と信じ受け入れた。やがて彼は家路についた。翌日の早朝、教会に電話が鳴った。出てみると彼からだった「先生、朝早くからすみません。昨日はウイスキーも睡眠薬も飲まずにぐっすり眠れたんです、それが嬉しくて、嬉しくて…」電話の向こうで泣いていた。

数年後彼は教会で結婚をし二人の子供にも恵まれ、更にあれほど不幸の原因と憎んでいた母親を呼び寄せて5人で暮らしている。

人生は変わるのだ!



 

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2016年09月18日

2016年9月18日主日礼拝「夕暮れ時に光がある」ゼカリヤ14:7

音声で聴く。

ゼカリヤ14:7  「夕暮れ時に光がある」  



【序】夕暮れの太陽をご覧になった事があるだろう。地平線に傾く太陽は昼間の時よりも遥かに大きく見える。又その光は眩しいほど輝く。正に「夕暮れ時に光がある」。 しかし今日の御言葉の意味するところは単に自然現象に留まらない。それをお伝えしたい。



 



T.シルバーエイジという人生の夕暮れ時に「光」がある



優れたクリスチャン医師のポール・トウルニエはその著『人生の四季』の中で老年期の課題として二つ語る:

@肉体的衰えー以前、眼医者に通っていた時の話。診察が始まる1時間も前から10人程のお年寄りが陣取っている。仕切っている方が入って来た顔見知りに「あんたどこに行ってたの」「心臓の病で○○病院に通っていて」「良かったあ、○○さんなら安心。△△だともう死んでるよ!」と恐ろしい話。続いて「あんたはいいよ。私の方が病気は重い」と口々に自分の病の告白?!

A孤独と不安。

孤独は人付き合いが苦手でとか口下で孤独になるのではない。人は最後まで支えになる友をもっていないという心細さで誰にも根本的な孤独があるのだ。老人の自殺者も多い日本。そこに光があるのか?→「生まれる前から運ばれた者よ。あなた方が年をとってもわたしは同じ様にする。あなた方が白髪になってもわたしは背負う。私はそうしてきたのだ、尚わたしは運ぼう。わたしは背負って救い出そう」(イザヤ46:3,4)



 



U.試練という人生の夕ぐれ時に「光」がある



この試練という人生の夕暮れは年齢を超えて若い人にもある。それはもう自分人生が終わりかと思う人生の夕暮れにも似た時である。日本では病や禍は不幸の星の元に生まれどうしようもない「因果応報」の中にあると考え、時に責められる。しかし否!である。キリストは生まれつきの盲人に「誰が罪を犯したのでもない、神の業が現れるためである」(ヨハネ9:3)と言われ、彼に生きる力と光を与えられた。不安や悩みをもたらす課題は人間の無力を知って愛と救いの神を知るためである。

【証】クリスチャン作家であった三浦綾子さんは病気の連続…若い時カリエスで13年間ギブスで固められ…直腸癌…パーキンソン…しかし講演会で「一寸先は闇と言いますが、私はキリストを知って一寸先が光と変えられました!」と。人生の試練にも光がある!



 



V.死いう人生の夕暮れに時「光」がある



「死」は最大の不安(自身の消滅、集めた物の放棄、別れの寂しさ、死後の裁きの不安…)

 ∴死ぬこと程、人を不安に陥れるものはない。

しかし聖書の福音は、死そのものを打ち破られたキリストがおられ、キリストを救い主と信じる者に死に打ち勝つ永遠の命が与えられるグッドニュース!

ヨハネ3:16、5:24、6:39,40 無力な弟子達が殉教の死をもって伝えるメッセージ。教会が復活のメッセージを作ったのではなく、復活の事実が教会を作ったのだ!

日曜日礼拝はその日の記念日! 正に死に打ち勝つ「永遠の命」という「光」あり!



 

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2016年09月11日

2016年9月11日主日礼拝「全能の神」創世記17:1-8

音声で聴く。

創世記17:1-8  「全能の神」  



【序】日本には節目の年齢を表現する独特の表現がある。60才は還暦。では99才は何?「白寿」。百という漢字から一を取れば99になるからだ。そんな99才のアブラハムに神は語られる「わたしは全能の神である」と。これはいかなる意味だろうか?



 



T.神は「不可能を可能にする」という意味



神は99才のアブラハムに「子供を与える」と語り、実際翌年の百歳の時に子供を与えられる。妻サラ90才の時。(127才まで生きたサラは現代年に換算すると60才!) しかし人間的には子供を生むのは限りなく不可能。なぜ人間的不可能に見える時まで待たされたのか?→それはアブラハムに「全能の神」を示すため!

アブラハムは「信仰の父」と言われる。後に生きる人類にとって希望の星のような人物。アブラハムを知って「ああ人間的には不可能に見えても、可能にする神がおられる。有限の世界も無限への可能性があるのだ」という希望を世界の人々に抱かせるためである。

【証】教会にも神の驚くべき恵みと力を経験した人が多くいる。直ったとしても植物人間と言われた陽平君も。劇的に信仰告白に導かれた多くの方々や病や癒し等…※リコーの創業者市村清さんは「儲ける有限、儲かるは無限」と言った。商売の世界でも無限の世界がある。聖書によれば人を無限の世界に生かす全能の神がおられるのだ。



 



U.神は「過去の汚点の回復を可能にする」という意味



アブラハムは約束の子を与えられるまでフラフラしどうしだった。神の約束を聞き、無数の星を見せられて、子孫はこのようになると言われて信じた!にも拘わらず妻サラの提案で女奴隷ハガルによって子をもうけてしまう(16:16)。これは神の約束を踏みにじる行為であり彼の汚点であった。神への申し訳なさ、自分の不甲斐なさ、もう神に顔向けできないとの思い…。しかし神はアブラハムに現れ過去の罪を帳消しにし約束の子を与えられる。神は彼に恵みを拒まれない。罪や失敗にも拘らず神はいつでも再出発を可能にして下さるのだ。

「わたし、この私は、わたし自身のために、あなたの背きの罪を思い出さない」(イザヤ43:25)



 



V.神は「祝福された未来を可能にする」という意味



3節には「もうアブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしがあなたを多くの国民の父とするからである」神は今までの彼の人生を変えて祝福された未来を提供されるのだ。

【証】20世紀最大の奇跡…米国に一人の少女がいた。父は酒が入ると母に暴力、その為母衰弱死。友人に発見された時、母の両手に彼女と3歳の弟の手が握られていた。弟は栄養失調で母の後を追った。しかし父は少女を見捨て蒸発。少女は孤児院に入れられた。口を利かない、統合失調にもなった。絶望の日々。そんな中ある年、教会の訪問団があった。生まれて初めて聞くキリストの生涯。十字架上の祈り「父よ彼らを赦し給え、彼らは自分のしていることが分からないからです」彼女の心は動いた。信仰を持った彼女は20歳で孤児院を出る。「神様。私をこれから私より不幸の子供のためにお使い下さい」。導かれた家庭に、三重苦の少女、ヘレンケラーがいた。祝福の未来がある。



 

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