2016年11月27日

2016年11月27日主日礼拝「泉の湧く生涯」詩篇84:5-6

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詩篇84:5-6 「泉の湧く生涯」
【序】6節に「涙の谷を過ぎる時も」とあるが、これは全ての人が通る谷ではない だろうか。男も女も、年輩の方も若い人も。...人間関係がこじれたり、長い病の谷 を通らされたり、思いも寄らない突然の悲しみだったり、まじめに生きてきたのに 誤解されたり...。こういう時どうやって立ち上がるか? 聖書の励ましの言葉を聞 いて頂きたい。
I.「涙の谷を通る理由」
涙の谷を歩んでいるとき、人は色々と間違った理由付けを聞かされる。 「悪い環境に生まれたから」「過去の失敗の所為だから」「心がけが悪かったか ら」...。 しかし聖書はそう言わない。→「そこを泉の湧くところとします」(6) つまり、 あなたが涙の谷を通った理由は「泉の湧く生涯への招き」だったのだ。 どんな否定 的なエネルギーや悲しみを受けても、さながら凧が逆風を受けて空高く舞い上がる 様に、神の御心は、涙が癒されるだけではなく、その経験を通してあなた自身と周 りの人に泉が湧き上がる様な経験に導く事にある。即ち涙の谷を経て人への優しさ を持つ存在になる事だ。 しかし神のこの素晴らしい御心が分からず、以下の生き方をしてしまう。

II.多くの人に見る三つの生き方
1.マイナスからマイナスへ
例:「又こんな不幸に出会った...前もそうだった。きっと私の人生はこれで最後まで 行くんだ」 親が子に:「おまえ又ゼロ点。前もゼロ点。この次もそうだろう」→これではやる気 が出ない。 【比較】N師の小学生の息子テストで0点を取った。「えらい!これ以上さがらな い点を取った。えらい!これを隠さず親に言えた」→息子は後に教師になった 運命
を決めるのはあなたや環境ではない、神なのだ!

2.プラスからマイナスへ
【例】電車に乗ったらこんな会話が「今はピチピチでもそのうち中年よ」(女子高
生が中学生に!)
人生の流れはプラスからマイナスだ。故に今の内に楽しんでおかないと、という訳
だが年が行くと地金も出る。【例】ある老夫妻が痴呆になり老人ホームへ。そこで
二人の地金が全く違う形で出た。
夫「教師たる者、夫たる者...」といつも説教癖。見舞いに来たのにが叱られて帰ら
ねばならない。
妻「まあきれい」「ああおいしい」「ありがとう」の三つしか言わない。夫人の回
りには看護師さんで一杯!。
3.マイナスからプラスへ
真面目な人の語る言葉「今はダメでも、やがて良くなる」
しかしこれは、今いる所を感謝無しで生きているからどこまで行っても満足しない
人生である。今日感謝できないなら明日もできない。
III.泉の湧く生涯の秘訣
「その力があなたにあり、その力があなた(神)にありその心がシオンへの大路に
ある人」(5)

「あなた」とはあなたの創造者である神。あなたも涙の谷を過ぎる時も泉の湧く生
涯に導く神を受け入れて共に進んでは如何か?
→どんなに美味い食事も説明を聞くだけでは味わえない。神について聞くだけでは
信仰は解らない。


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2016年11月20日

2016年11月20日主日礼拝「最大の試練」創世記22:1-14

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創世記22:1-14
 「最大の試練」



【序】アブラハムにとって最大の試練が起こる。「息子を捧げよ」と。父が殺人をするのではない、気がふれたのでもない。神の命令だという。何と言う事か!ところがこの場面が絵画、小説、映画の題材になり、「信仰の父」として賞賛される。この試練の意味は何か?私たちも様々な試練を受けるが、それと併せて学びたい。






T.「愛するものは誰のものか?」が問われた試練


「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサク」(2)とある。年老いてやっと生まれた世継ぎの我が子。正に「目に入れても痛くない程」愛していた。しかしである。愛しているものには執着が生まれる。執着があるとなかなか手放せない。しかし現実は、手放さねばならない時が来る。人でも財産でも仕事でも。するとそれを受け入れられないで深い傷ができてしまう。しかし「私たちは裸で胎を出て裸でかしこに帰る」(ヨブ1:21)とあるように命も家族もお金も神から戴いたのだ。いつの間にか「わがもの」になり、執着が生まれてしまうのだ。故に「何と理不尽な」と叫ぶのは、所有者を間違った叫びなのだ。神こそ一切の所有者であるのに、私たちが所有者になる。アブラハムは神こそ所有者また与え主である事との本来の姿を自覚し乗り越えた。ここにアブラハムが信仰の父と尊敬される理由がある。
【証】30年前手術で入院し礼拝を休まねばならない時があった。病室で一人一人のために祈っていた時、光?が差し込み御言葉が語られた「わたしの羊を養え…私の羊であってあなたの羊ではない。わたの教会であってあなたの教会ではない」と。「わがもの」から神にお捧げした次第である。






U.神に従って大丈夫なのかが問われた試練


「神が我が息子を与えておいて捧げよ」とは理不尽な!本当に神に従って、神の言葉に従う人生に間違いはないのか?が探られた試練である。私達も神に従う事が分からなくなる時がある。キリストの弟子達も3年半主と一緒にいたのに主の裁判の時、心くじけて恐怖のあまり主を裏切り従い通すことができなかった。そんな時キリストが言われた言葉がある「ガリラヤに行きなさい。そこで会おう」(マタイ28:10)ガリラヤは弟子達が初めて主と出会った場所。即ちもう一度「原点」に戻ることだ。今までのことを振り返り、恵みの一つ一つを思い返すことである。すると何が大事か、また如何に神に守られてきたか、神の導きがあったかが解り神の真実が見えてくる。従う事に不安を感じるだろうが、アブラハムにも羊が代わりに備えられていた様にあなたにも備えがある→「主の山に備えあり」(22:14)






V.死は全てが終わりなのかが問われた試練


イサクを捧げてしまえばつまり死んでしまえば全てが終わりではないか、という不安。しかしへブル11:17-19にはアブラハムが復活信仰を与えられた事を語っている。神が無茶なことを言われるはずはない、敢えてそうなら神は全責任をもって我が子の命を甦らせてさえくださるだろう、との復活信仰!が与えられたのだ。
【証】映画「ベンハー」の原作者ルー・ウオーレスの回心


不朽の名作映画「ベン・ハー」の原作者ルー・ウオーレスの回心
米国の南北戦争時代。将軍であった彼は徹底的な無神論者で、弱く見えたクリスチャンのキリスト信仰が間違いであることを立証する本を書く誓いを立てた。彼は5年間取りつかれたように当時の文献を読みあさった。ローマにもエルサレムにも行って死に物狂いでキリスト教批判御本を書く為に没頭した。
膨大な資料に囲まれ第一章を書き終え、第二章に取り組んでいたある夜の事、突然ペンを投げ出しひざまずいて叫んだ「わが神よ、わが救い主よ!」
ずっと彼の敵であったキリストに向かっての叫びだったのだ。
彼を突き動かしたのは否定できない二つのことであった。
1.十字架上でのキリストの祈り「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかわからないでいるのです」
2.キリストの死後、おどおどしていたキリストの弟子たちに見られる命を懸けての伝道と殉教。
この二つがルー・ウオーレスの心を捕えて離さなかったのだ。それまでキリストを否定するために研究してきた資料を前に、新たにペンを握り直して書き始めた。それがあの「ベン・ハー」だった。



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2016年11月13日

2016年11月13日主日礼拝「望みを捨ててはいけない」創世記21:14-21

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【序】石川啄木の詩に『石川は不憫な奴だ 時にこう自分に言いて 悲しみてみる』がある。自分の事を不憫な奴だと考えると悲しみが出てくるという、私でも書けそうなごく当たり前の詩を書いている。しかしこういう詩がなぜか世に出、共感も呼ぶ。それは人間というのは自分を見て自信喪失し嘆く時が多いからだ。しかし今日伝えたいのはそんな嘆く私たちに目を留め、励まし、生きる望みと力を与えられるお方がいるのを伝えたい。






T.神はクリスチャンの神だけではなくノンクリスチャンの神でもある


聖書の中心的流れで言えば人類の救い主の家系アブラハムの子孫が中心である。しかしこの箇所は中心から離れてハガルとイシマエルの苦しみに目を留める神の姿が現されている。ハガルの言葉に信仰的発言も祈りもある訳ではない。ただ嘆きと涙!16しかし神はその人が嘆きと苦しみの中にあるという理由で目に留め憐れまれるお方なのだ。即ち聖書の神はクリスチャンの神のみならず、ノンクリスチャンの神でもある。端的に言えば嘆く者の神なのだ。人種の差も、男女の差も、貧富の差も、宗教の差もない。ただ神は嘆く者を救う方なのだ。詩篇12:5






U.ハガル達に命の危機をもたらした原因は何か


直接の原因は、サラがハガルを追い出したからだが、真の原因の根はもっと深い。十数年前サラが夫アブラハムに子供がないのを苦慮し思い切って女奴隷ハガルを夫に進呈して子供を得させた。これはサラの「良かれ」と思っての行動であった。しかしこの「良かれ」が後々悲劇をもたらす。というのは、後になってサラは神が約束されていた子供を与えられ、結果ハガル達と対立し彼らを追い出し命の危機にさらすことになった。結局サラが「良かれ」と思って出た行動では問題は解決せず早まった浅千恵であり、ハガル達を危機に陥れた真の原因であった。
【適用】私達も「良かれ」と思っての行動は多い。あの人のためにこれは良いことだと思って事を進める。しかし良かれと思うのは自分に悪気はないがやはり独りよがりである。@相手が望んでいるとは限らないからである。A大切なのは「良かれ」という思いで行動するのではなく「神の御心」はどこにあるのかと考え行動することである。ローマ12:2






V.あなたが人生を捨てても、神はあなたを捨てない


ハガルとイシマエルは水がなく今にも死ぬ寸前であった。ハガルは「その子を投げ出した」(15)が人生をも投げ出した。しかし神は彼女と息子を憐れみ救われた。それのみか「大いなる国民とする」というビジョンさえ与えられた。(18)
それ故に私たちが絶望的な状況に直面しても望みを捨ててはいけないのだ。
【証】フジ子へミングの逆転人生…(次頁参照)
人生はどこでどうなるか解らない。結論を出すのをもう少し、延ばしてみないか?
なぜならあなたを造られた愛の神があなたの嘆きを希望に変えて下さるからだ!






フジ子ヘミングの人生
彼女は若い頃から天才的ピアニストと言われながら、実際にデビューしたのは1998年で60歳を過ぎてからだった。ドイツに留学し有名な指揮者バーンスタインに認められ華々しいデビューの機会が与えられたが、風邪をこじらせ全く耳が聞こえなって演奏会は中止。次第に音楽界からは忘れられていった。95年お母さんの死で日本に戻り、96年聖路加病院のロビーでボランティアとして患者さんのためにピアノを弾くだけになっていたが、あるきっかけで、NHKディレクターがそばを通り彼女の素晴らしい演奏を聴きインタビュをした。そして彼女の人生を「フジ子・あるピアニストの軌跡」という番組を制作し、その中でリストの難曲と言われる「ラ・カンパネラ」を弾いた。番組の最中全国から電話があり「あの素晴らしい演奏家は誰ですか。今まで見た事も聞いたこともない」その演奏に感動した人がCDを作り、クラシック界では記録を塗り替える54万枚が売られた。その後国際的な舞台で活躍し今日に至っています。彼女はこう言っている。
「今の私は以前よりずっとピアノが上手くなりました。どうしてもっと早くこの時が来なかったのか、と思ったことがありますが、今がその時だと思います。それまでの不遇の生活を支えたのは聖書の言葉でした」
「もし遅くなってもそれを待て。それは必ず来る。遅れることはない」(ハバクク2:3




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