2016年12月25日

2016年12月25日主日礼拝「素晴らしい喜びの知らせ」 ルカ2:8−1

音声で聴く。


ルカ2:8−1「素晴らしい喜びの知らせ」   



【序】今年のクリスマス礼拝は25日のキリスト誕生を記念する日曜日で正にピッタリの年。ところで誕生日は生まれた人に「おめでとう」と言うのに、キリストの誕生だけはお互いがおめでとうと不思議な祝い方をする。なぜか?→「民全体への素晴らしい喜び」(10)とある様に、キリストは人類に素晴らしい喜びをもたらすからである。



 



T.生きる力を与えられる喜び



聖書に38年もの長い間病で立てない男が出てくる。38年とは余りに長い!



→三つの絶望 @直らない絶望 A友人に見捨てられる絶望 B人生に意味があるのか?傷という絶望



しかしキリストは彼に「直りたいのか」と語りかけ、その人を立ち上らせ新しい人生を提供された。キリストは生きる力を与える喜びを今も提供される。



【輝く証人たち】父に捨てられ孤児院で育ったサリバン先生も、三重苦ヘレンケラーも、5年に一度発症する鬱で悩んだ新渡戸稲造も、頚椎損傷で首から麻痺した星野富弘も、キリストに出会い生きる力を与えられた。キリストは今なお世界中の人々に聖書を通して生きる力を与えられるのだ!



 



U.過去の傷が癒される喜び



 私達はあの人の所為でこうなったとか、あの環境の所為でこうなったと過去に引きずられて生きてしまい易いが、それでは幸福になれない。鍵は受容!でもどう受容できるか?



【ヨセフ】17才の時、腹違いの兄達に虐待を受けエジプトに奴隷として売り飛ばされる、挙句の果て無実の罪で牢獄生活十三年。しかし不思議な運命に導かれエジプトの大臣として抜擢される。後にかつて彼を虐待した兄達に再会。復讐を恐れた兄に向ってヨセフは言う「今、私をここに売った事で心を痛めたりしてはなりません。神は命を救うためにあなたがたより先に私を遣わして下さったのです」(創世記45:,5)意味が変わった!



辛い経験があったとしても、恵みの神を知る時、意味が変わるのだ!



 



V.心配からの解放される喜び



人は様々な事を心配する。健康、人間関係、仕事、将来…。しかし「心配毎の的中率は1%」を御存知か?これはモンテーニュが著『随想録』で語った言葉「私の生涯は恐ろしい禍に満ち満ちたものに思われた。しかしその実際は起こらなかった。心配事の的中率は1%に過ぎなかった」正に経験者語るだが、それでも1%の心配事の的中率を心配するのが心配性の特徴だ。そのために不安を抱くのだが、どうだろう?もし最悪の現実になったとしても、その最悪でさえへ祝福に変える御方がいるとしたら…それは正に朗報!そんなお方がいるのか。おられるのだ。私達を造り、万物を治めておられる愛と全能の神がこう語られる「神は全ての事を働かせて益としてくださる」(ローマ8:28)



 



W.最大の不安である死に打ち勝つ永遠の命の喜び



牧師として多くの人の死と接してきた。言える事は死は最大の不安だという事。しかしここに素晴らしい喜びが与えられる。キリストは死を打ち破って信じる者に永遠の命を賜るからである。ヨハネ6:39,40



【輝く証人たち】今年死に打ち勝った教会員の死に臨んでの希望…

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2016年12月18日

2016年12月18日主日礼拝「キリストは単なる聖人か」ピリピ2:3-11

音声で聴く。


ピリピ2:3−11     「キリストは単なる聖人か?」  



【序】小学生時に先生が「世界には三大聖人がいる。釈迦と孔子とキリスだ」と言われ興味をもった。しかし後に分かった事は、先生が挙げた先の二人は聖人だが、最後のキリストは単なる聖人ではなかった。クリスマスシーズン、聖書の語るキリストについてメッセージしたい。



 



T.キリストの本質



「神のみ姿であるのに人となられた」(6,7)



notキリストは三大聖人の一人で天才的な宗教家で遂に死後神として祀られた。



But神としての栄誉を捨てて人となられたたお方。それがキリスト!



キリストが神であると信じられる理由:



@奇跡…嘘なら福音書自体が当時抹殺されていた筈 A言葉…キリスト自身の言葉(父と同一)



B人格…愛の極み C世界広がり



キリストは神に近い人間ではなく、人間となられた神であるそして大切なことはそのキリストはなたと無関係な神ではないのだ。



 



U.キリストの目的



 (キリストは)…実に十字架の死にまでも従われた」(8)



はキリストが神の御姿を捨ててまで地上の来られた目的は何か?それは「十字架の死によって」私たちを罪の裁きから救うためであった。故に私たちと無関係な出来事ではなかったのである。聖書には「人間には一度死ぬことと死後に裁きがある事が定まっている」(へブル9:27)とあるが、私たちは個々に言葉、思い、行いにおいて罪を犯してきたものである。更には根源的には神に造られたのにその創造者である神を信ぜず従ってこなかったという原罪の罪がある。その罪を自分では解決できない。そしてキリストはそんな私達の罪の裁きを身代りに受けてくださった、それが十字架である。その為に地上に生まれてくださったのだ。



 【証】芥川龍之介「蜘蛛の糸」のお釈迦さんとキリストの違い…切れてしまう蜘蛛の糸による救いではなく(せめて太いロープにしてもらわないと!)人の罪と裁き身代りに負って救いの道を開かれたその愛!



 



V.キリストの生き方



聖書は3〜5節でキリストを我々人間の生き方の模範だと語っている。その模範とは一言で言えば「自らを捨てる生き方(7,8)である。獲得する事に終始してきた私たちは、喪失は辛い。しかし喪失は人生の現実。最後には命を喪失する。



二つのことを覚えたい



@喪失失う事ではなく捧げる事である。与え主である神にお返しする事だ。



ー癩玉木愛子さんの歌「目を捧げ手を捧げクリスマス」



A喪失栄光に繋がる→9節



フランシスの「平和の祈り(次頁参照)



主よ、わたしを平和の器とならせてください。

  憎しみがあるところに愛を、

  争いがあるところに赦しを、

  分裂があるところに一致を、

  疑いのあるところに信仰を、

  誤りがあるところに真理を、

  絶望があるところに希望を、

  闇あるところに光を、

  悲しみあるところに喜びを。



ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。

  理解されるよりも理解する者に、

  愛されるよりも愛する者に。

  それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、

  許すことによって赦され、

  自分のからだをささげて死ぬことによって

  とこしえの命を得ることができるからです。



 



―フランシスの「平和の祈り」― 



 



 

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2016年12月11日

2016年12月11日主日礼拝「なぜベツレヘムの馬小屋で」ルカ2:1-7






T.アウグスト帝の勅令が出たから
「全世界の住民登録をせよという勅令が皇帝アウグスト(ローマ初代皇帝)から出た」(1)
この勅令は9ヶ月の身重になっていたマリヤには命の危機をはらんでいた→300qのでこぼこ道をロバにゆられての危険な長旅。しかし皇帝命令で従わざるを得ない。このような中で人類の救い主イエス・キリストはお生まれになったが、大切なのは、その救い主の誕生はキリストがお生まれになる六百年前の預言者ミカを通して「ベツレヘムで生まれる」ことが神によって預言されていたのだ。すると迷惑な皇帝に動かされてベツレヘムまで来たと思っていたが、そうではなく神が皇帝をも動かして見事にそして彼らには無事に預言を実現された。ここに励ましがある。
【適用】あなたの人生にもあなたの意志を無視してあなたを動かすような「アウグスト」なるものがいるかもしれない(病、試練、人…)。でもあなたを真に動かすのは誰か?「アウグスト」ではない。アウグストは神の道具でしかない。真に動かすのは神なのだ。そして「アウグスト」さえ神の恵みの体験へと導かれる
U.馬小屋のように汚れと闇の中にいる私達を救うためである
「飼い葉桶に寝かせた」(7a) 
馬小屋は暗くて不潔。出産には誠に適していないが、キリストはそこにお生まれになった。しかし私達の世界や心は時に馬小屋以上に汚れ暗いのではないか?キリストが馬小屋を宿としたのはその様な暗くて汚れた世界を清め救うためであった。キリストは人間の闇と汚れを担って十字架にかかり、救いの道を開いて下さったのだ。【適用】私たちの手の罪のためにキリストの手は釘打たれ、私たちが行ってはならない足の罪のためにキリストの足は釘打たれ、私たちが発してならない言葉の罪のためにキリストの頬は殴られ唾をかけられ、私たちが抱いてはならない悪い考えのためにキリストの頭に棘のある茨の冠がかぶせられ、私たちが心に潜ませてはならない憎しみ妬み、心の罪のためにキリストの心臓に槍が突き刺されたのだ。

V.神の御子なのに正当な扱いを受けられなかったから
「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」(7b)
 もしマリヤの胎におられるのが神の御子と皆が認めていたら馬小屋をあてがわれるのではなく、もっと手厚い扱いを受けられただろう。しかしヨセフもマリヤも貧しい大工の夫婦、またマリヤの胎の子も神の御子とは受け止められなかったのだ。
【証】神学生時、ある教会の青年会に説教を頼まれた。クリスマス劇があり、意地悪な宿屋の主人の演技が面白くて皆の笑いを誘っていた。そして最後の宿屋の主人の酷い扱いに肩を落として立ち去るヨセフとマリヤに、男の子が泣きながら叫んだ「ヨセフさん、マリヤさん、ボクの家に来て泊まって下さい!」知的障害の子だった。彼には主への愛があった!→私達はキリストを人生の王座にお迎えしているだろうか?


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