2016年12月18日

2016年12月18日主日礼拝「キリストは単なる聖人か」ピリピ2:3-11

音声で聴く。


ピリピ2:3−11     「キリストは単なる聖人か?」  



【序】小学生時に先生が「世界には三大聖人がいる。釈迦と孔子とキリスだ」と言われ興味をもった。しかし後に分かった事は、先生が挙げた先の二人は聖人だが、最後のキリストは単なる聖人ではなかった。クリスマスシーズン、聖書の語るキリストについてメッセージしたい。



 



T.キリストの本質



「神のみ姿であるのに人となられた」(6,7)



notキリストは三大聖人の一人で天才的な宗教家で遂に死後神として祀られた。



But神としての栄誉を捨てて人となられたたお方。それがキリスト!



キリストが神であると信じられる理由:



@奇跡…嘘なら福音書自体が当時抹殺されていた筈 A言葉…キリスト自身の言葉(父と同一)



B人格…愛の極み C世界広がり



キリストは神に近い人間ではなく、人間となられた神であるそして大切なことはそのキリストはなたと無関係な神ではないのだ。



 



U.キリストの目的



 (キリストは)…実に十字架の死にまでも従われた」(8)



はキリストが神の御姿を捨ててまで地上の来られた目的は何か?それは「十字架の死によって」私たちを罪の裁きから救うためであった。故に私たちと無関係な出来事ではなかったのである。聖書には「人間には一度死ぬことと死後に裁きがある事が定まっている」(へブル9:27)とあるが、私たちは個々に言葉、思い、行いにおいて罪を犯してきたものである。更には根源的には神に造られたのにその創造者である神を信ぜず従ってこなかったという原罪の罪がある。その罪を自分では解決できない。そしてキリストはそんな私達の罪の裁きを身代りに受けてくださった、それが十字架である。その為に地上に生まれてくださったのだ。



 【証】芥川龍之介「蜘蛛の糸」のお釈迦さんとキリストの違い…切れてしまう蜘蛛の糸による救いではなく(せめて太いロープにしてもらわないと!)人の罪と裁き身代りに負って救いの道を開かれたその愛!



 



V.キリストの生き方



聖書は3〜5節でキリストを我々人間の生き方の模範だと語っている。その模範とは一言で言えば「自らを捨てる生き方(7,8)である。獲得する事に終始してきた私たちは、喪失は辛い。しかし喪失は人生の現実。最後には命を喪失する。



二つのことを覚えたい



@喪失失う事ではなく捧げる事である。与え主である神にお返しする事だ。



ー癩玉木愛子さんの歌「目を捧げ手を捧げクリスマス」



A喪失栄光に繋がる→9節



フランシスの「平和の祈り(次頁参照)



主よ、わたしを平和の器とならせてください。

  憎しみがあるところに愛を、

  争いがあるところに赦しを、

  分裂があるところに一致を、

  疑いのあるところに信仰を、

  誤りがあるところに真理を、

  絶望があるところに希望を、

  闇あるところに光を、

  悲しみあるところに喜びを。



ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。

  理解されるよりも理解する者に、

  愛されるよりも愛する者に。

  それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、

  許すことによって赦され、

  自分のからだをささげて死ぬことによって

  とこしえの命を得ることができるからです。



 



―フランシスの「平和の祈り」― 



 



 

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