2017年02月26日

2017年2月26日礼拝メッセージ「落胆の中から見えてくるもの」出エジプト記6:1-9 音声で聴く。

出エジプト6:1−9 「落胆の中で見えてくるもの」

【序】人生に落胆する事があるだろう。私も教会開拓3年目に起こった事は堪えた。0人から11人のメンバーになり幸先良いと思えたが、私への批判が起こり、6退去された。同僚からは金剛教会はつぶれたと噂され、蕁麻疹が一カ月生じ悩んだしかしこの落胆は後に教会とは何かを深く聖書から学ぶ機会が与えられ今日の基礎になった。

今日お伝えしたい事は「落胆の中で見えてくる希望があるのだ」ということだ


T.落胆の原因

9節に落胆と激しい苦役のために…聞こうとしなかった」とある。

@民の落胆―奴隷であったイスラエルの民重労働のように先が見えない事には落胆を覚える。これは仕事でも病気治療でも先が見えないなら落胆する

Aモーセの落胆―遡る40年前、イスラエルの民を救おうとしたが理解してもらえず挫折理解してらえない事には落胆する自信喪失→逃亡

【適用】落胆時は「なぜあんな事をしたのか、あれさえなければ」という過去の問題に縛られて動けなくなる。一番の問題はそれに縛られて希望が見えないという「縛り」である。もしあなたが過去の何かに目と心が縛られ落胆の中にあるなら、あなたの落胆から解放するの語りかけがあるという事を知って頂きたい!


U.落胆の中で語られる神の言葉

1.落胆しなくなる時が来る「今にわかるようになる」(1)

今は民も落胆し、モーセも落胆しているが、それは今の時点しか見えていないから。しかし6、7節を見よ!民の落胆は変えられ、やがて約束の地に導かれる。

【適用】あなたが落胆の中にあっても、言えることは今があなたの人生の全てではないという事だ。現実の理不尽に当たらぬ意味を付けず、「今にわかるようになを信じようではないか!


2.信仰を広げなさい→「わたしは主である」という言葉が3度も語られる。(2,7,8)

 「主」とは私たちの人生に起こるすべての事柄が一切の支配者、責任者であるとの意味。その神を落胆の中で見いだすことは幸い!

  【適用】今まであなたの求道や信仰の神はひょっとしてあなたの小さな世界の中でしか信じていなかったのではないか?仕事の中だけ、必要のあることの中だけ…。あなたの落胆時の最大の必要は人に分かってもらおうとする事ではない→あなたの創造者である神を領域で知るである。全ての不可解であれ全ての事柄の主である神はあなたの救い主!


3.再び過去のトラウマが癒されるチャンスが与えられる

モーセには40年前に挫折したトラウマがあった。しかし神は再びチャンスを与えてトラウマから解放される。神は決して人が挫折のまま人生を終えることを望まれない。チャンスを下さるのだ。神はあなたそのものを用いられる。多くの人は「自分なんて」と過小評価するが→ゼパニヤ3:17

  適用自分を低く過小評価するのをやめよう。あなたが教会に来ていること既に神があなたに注目しておられる事だ!神はあなたの傷を癒し豊かな人生へと導こうとされている過小評価はやめよう!

posted by kbcc at 13:23| 礼拝

2017年02月20日

2017年2月19日礼拝メッセージ「新しく生きる」音声で聴く。

使徒9:1−  「新しく生きる」     

【序】あっという間に2月も後半。今年も7分の1が過ぎようとしている。「昨年は色々あったが、今年は良い年にしたい。新しくやり直したい」と願う人は多いのではないか。今日の箇所は、サウロ(パウロ)が生まれ変わる様子を記している。人は皆、自力で自分を変えることはできないが、聖書は私たちがキリストを通して新しく変わることができると語っている。では、「キリストを通して」というキーワードで、3つのことを伝えたい。

Tキリストを通して、見えない自分が見えるようになる

元来、パウロは熱心なユダヤ教徒キリスト教を異端と見なし、クリスチャンを迫害した。彼は熱心なあまり、遠い町にも出かけて行き、クリスチャンを捕えるほどだった。ところが突然、天の光に打たれる(35)。この時、彼はそれが直感的に神だとわかった。しかし、その方から「なぜわたしを迫害するのか」と言われ、ショックを受ける。「私は正しい事をしている」と思っていたのに、その逆だったのだ。その様子はまるで「目は開いていても何も見えなかった」とある通りだ8

私たちも聖書に出会い、キリストの光に照らされる時、本当の自分を知る。自分が何によって突き動かされているのか。キリストとはどんな方であり、自分がどんな人間かを知らされる。新しく生きるには、まずキリストを知ることが必要だ。キリストを通して、人は心の目の覆いが取りのけられ、心の視力を取り戻すのだ。

Uキリストを通して、どんな人でも新しくなれる

パウロはクリスチャンを捕えただけでなく、投獄や死刑に加担した過激な人だ。キリストはペテン師であり、復活などデタラメだと信じていた。ではなぜ、キリストは彼の前に現れたのだろう?もっと温厚な人が他にいたのではないか彼は晩年こう語っている。そのような私が憐れみを受けたのは、イエス・キリストが今後彼を信じて永遠の命を得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示して下さったからです。」(Tテモテ1:16

つまり、こういうことだ。「神は、私のような罪深者をあえて選ばれた。こんな反抗的で頑固な私さえ変えられたのだから、どんな人でも変わることができる神はそれほど恵み深い方だ。あなたもキリストを通して新しくなれる!」

【証】作家ジョシュ・マクドウェル若い頃、「キリスト教など、弱い人間が信じるものだ」と軽蔑していたしかしある日、「キリストが神の子かどうか、自分で調べなさい」とチャレンジを受け、「じゃあ、学問的に否定してやろう」と研究に没頭する。ところが、研究を進めるうちにキリストの愛に捕えられ、クリスチャンとなる。以来、彼の人生は新しく変えられた。@心と思いが自己中心から他者中心になったA短気でなくなったB父への憎しみが消え、父を赦すことができた

聖書を退けるのは簡単だが、キリストには人を造り変える力がある。どんな人も新しくするこの力を受け取ってほしい。

Vキリストを通して、新しい使命が与えられる

パウロの体験を知ると「彼は特別な人だったのだろう」と思うかもしれない。さすが「選びの器」と言われているだけあり、「やはり有能な人だったから、福音を伝える使命が与えられたのだ」と思うのかもしれない。しかし、そんなことはない。Tペテロ2:9は、私たちクリスチャンが「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です」と語る。私たちは11人が選びの器であり、福音を宣べ伝える(主のみわざを分かち合う)尊い使命が与えられているのだ。

私たちは自分の存在や生き様を通して、キリストを指し示すことができる。身近な家族や友人に愛をもって接するなら、彼らはあなたの中に何かを感じるだろう。機会が与えられたなら、自分がどのようにして変えられたかを話すことができる。神から与えられた使命に感謝し、置かれた場所でキリストを紹介していこう!

posted by kbcc at 01:16| 礼拝

2017年02月12日

2017年2月12日礼拝メッセージ「妬み心の解決」創世記27章1-25節音声で聴く。

創世記27:1−2  妬み心の解決     

【序】妬みを抱いたことがない人はいないだろう。妬みというのは予期しない時にふつふつ湧き出てしまうものだ。自分と同レベルだと思っていた友人が先んじて成功を修めたり、友人が自分より皆にもてはやされたり、大好きな人が自分以外の人を重んじたりすると、めらめらと妬みの炎が燃え始め、とんでもないをやり出すものだ。しかし、この妬み心で悩まされる私達に聖書は解決の道も示している。神の御心に聞こう


T.どんな事件が起こったか

父イサクは年をとり、今の内に双子の長男エサウに遺産相続をしておきたいと考え、エサウに猟を頼み肉料理を作ってもらい、それで祝福(遺産相続)をしようと打ち明ける。それを聞いていたイサクの妻リベカは、兄よりも弟息子ヤコブに家督を継がせたいと思い、毛深い人であったエサウの晴れ着を着させ、毛皮をヤコブの手と首に付けて父の前に出なさい、と勧める。そこでヤコブはエサウになりすまして父から遺産相続の祝福を奪い取る。手の込んだ偽装工作をする


U.この偽装工作の根にあるものは何か

父が兄に「お前の手から肉料理をもらいたい。祝福するから」という父の言葉を聞いたときからヤコブの心にムラムラと邪悪な感情が出てきた。自分には声をかけてもらえないという僻みと、競争心から出た妬みである!妬みとは近なものが自分より恵まれ、愛され、特別扱いを受けているが許せない心の事である。

「妬み」=ゼロス(ギリシャ語原語)で「熱心」の意。自分の嫉妬心を知りたければ、自分が一番熱心になる世界が分かれば、その熱心な世界で自分より愛され人気者に嫉妬がでる。だから「熱心」が神に向かえばいいのであるが、他人に向くときに出るのが「妬み」である。

V.どのようにして妬みを解決する事ができるか

結論から言うと神の愛に立ち帰る事ヤコブは父からの自分の祝福がなくなってしまうように感じているが、それは誤解である。→25:23には、双子の兄弟が生まれた時、神は二人の運命を語られた。「兄が弟に仕え、弟の方が強くなる」と。この神の言葉を信じるなら、手の込んだ偽装工作などをしなくても時が来れば必ず祝福は与えられる筈なのだ結局、妬みは神の愛と神の言葉に信頼せず、自分の力だけ祝福を勝ち取ろうとすることから生まれるのである

しかし改めて考えるに、人から特別扱いを受けようと必死にもがかなくても、私たちは既にある最高のお方から「特別扱い」を受けているのだ

「知れ、主はご自分の聖徒を特別に扱われる」(詩篇4:3)

Q「自分は特別に扱われている意識がない」と嘆く人よ。→ヨハネ15:16にキリストが「あなたがたがわたしを選んだのではない、わたしがあなたがたを選んだ」とある。あなたが教会に来ている事実の中に、そしてあなたがキリストを救い主と信じた事実の中に。あなたが神に特別に打扱われている事実があるのだ感謝しよう!

posted by kbcc at 23:54| 礼拝