2017年04月25日

2017年4月23日礼拝メッセージ「幸せのハードルを下げませんか」ヨブ1:20-22 音声で聴く。

ヨブ1:20−22 「幸せのハードルを下げませんか」    メモリアル礼拝17.4.23

【序】説教題を「幸せのハードルを下げませんか」としたが、人生がスイスイ行っている時は幸せのハードルを高めに設定し易い。「ここまで来たんだからもう少し上に」と考える訳だ。確かに努力するのは良い事だ。ただ人生いつもスイスイ行くとは限らない。思いもよらない試練や苦しみ、病、死を経験する訳で、そうなると目標を見失い落ち込んでしまう。そこで提案したい事は「幸せのハードルを下げませんか」という事。ではなぜ「幸せのハードルを下げませんか」と提案するのか? 以下の三つの理由をお伝えして励ましになれば幸いである。


T.多くの喜びは幸せのハードルを下げた中に見いだせるものだから

  病を経験し長い入院生活をしてきた人が退院されると、今までは大して感じなかった家庭料理が美味しい、家の布団が有難い、花の世話も嬉しいと、よく聞く。実は喜びは身近な生活の中にあるのだ。又喜びは健康にすこぶる良いのはよく知る所。

【子供と大人の笑いの時間統計】子供が笑っている時間は一日2時間、大人は2分。(1時間で5秒しか笑っていない)後はムスッとしている、一番ムスッとしているのは家の中だそうだ。心当たりある?

もう一度何気ない事に感謝しようではないか。食べれる事、歩ける事、会話ができる事…。礼拝に来れる事。高い幸せのハードルが悪いとは言わないが、低い設定の中に意外と見落としている喜びがある事を覚えたい。


U.元々人は裸で生まれ裸で死んでいくから

 聖書のヨブは人生で大きな試練に出会った人。事業を失い、子供を失い、健康を失うという三重苦!そのヨブが語った言葉が「私は裸で母の胎を出てきた。又裸で私はかしこに帰ろう」(21)  人生はゼロで始まりゼロで終わる。だとしたら一つでも人生に良いことを与えられたら、それは実に有難い事だ。しかも「かしこ」に帰る世界を持つ人は幸い。そう思うと感謝が生まれ、感謝が生まれると前向きな展開も生まれるだろう。


V.神の力は人間的力を失って見出すものだから

人は何かの力で生きていくものだ。健康、お金、能力…しかしこの力を何かの挫折で失う事があっても、それで人生終わりではない。なぜなら聖書を見るとこの力とは別のもう一つの力が存在するからだ。それは神が下さる力である→「わたしの力は弱さの中に完全に現れる」(Uコリント12:9)星野富弘氏の頚椎損傷後の首下完全麻痺の中で与えられた新しい力もその証!

浅野順一は「ヨブ記」の中で→「人生には、病気や事業の失敗、家庭問題といった様々な破れが生じる。人生を一つの円で表現すると、円に張られた幕に破れが生じるのである。そしてこの世の多くの宗教は、その破れたところを何とか繕う作業をすることに躍起になる。上手く行けばよいのだが、その破れがもっと酷い事にもなる場合がある。この破れの繕いも一つの救いではあると思われるが、どうしても破れをつくろえないものがある。それは死である。聖書の信仰は、破れを繕う作業よりも、今まで円に幕が張られていたために見えなかった向こうの世界が、破れたお陰で、初めて見る事ができる素晴らしい世界があることを見せてくれるのである」

【結び】挫折は終わりではなく新しい力を得る人生のステージなのだ!

posted by kbcc at 21:46| 礼拝

2017年04月17日

2017年4月16日礼拝メッセージ「イースターが伝える希望の福音」マタイ28:1-10 音声で聴く。

マタイ28:1−10   「イースターが伝える希望の福音」     4.16/17

【序】一般新聞に「日本でイースターがブームになりつつある」とあった。最近はウサギやひよこのグッズや卵料理、春の装いetc。しかしイースターはセールス以上にもっと素晴らしい喜びの訪れなのだ。それは人類に大きな希望をもたらしたからだ。今日、カギになる三つの言葉から「イースターが伝える希望の福音」をお伝えしたい。


T.死を超えた永遠の命の希望―「甦られました」()

 何が不安と言って死ぬ事程不安と悲しみはないだろう。死は誰にもやってくる。来たら避けられない。死は全てを失う。人もお金も。更に死後の世界への不安がある。だから死は最大の悲しみであり不安なのだ。しかしここに人類に最大の希望が与えられた→キリストの復活である(6)しかし何が信じられないからと言って、死人が生き返ることほど信じられない話はないだろう。だからキリストが死を打ち破って復活されたというのも、弟子たちが亡霊を見たのではないか、作り話ではないか、文学的象徴ではないのかと、様々な解釈があった。しかし→@殉教の事実 A世界大的拡がり B死に臨んでの信仰者の平安と天国への明確な希望−これらは信じるに足るしるしである。教会が復活というメッセージを作ったのではなく、復活という事実が教会を作ったのである。その結果ヨハネ11:25は信者への希望なのである。


U.人生の再出発の希望―「ガリラヤに行け」(10)

 弟子達は失意の中にあった。主を裏切り見捨てたからだ。3年半主と共に過ごし奇跡も素晴らしい教えも愛も知った。しかしここ一番という時に信仰も愛も発揮できず主を裏切ったのだ。そんな時「ガリラヤに行こう」と主は言って下さる。何故ガリラヤ?→ガリラヤはペテロ達が主と初めて会った場所。つまりガリラヤは新たに再出発を可能にする場所!主は過去の罪と失敗と傷を持つ彼らに、もう一度人生の再出発のチャンスを提供される。あなたにも再出発のガリラヤがある!

【適用】あなたが過去の罪や弱さや失敗で打ちのめされていたとしても「ガリラヤ」があるのだ!主が再出発の道を用意して下さっている。実は敗北や無力の経験は自分を嘆くためにあるのではなく、真の力の主を知るためにある。そもそも私達は裸で生まれて来たのだ。やれ財産だ健康だと求めて何となくそれで間に合っていたが、人生の試練や挫折の前には本当の力ではなかった事に気付く。だから命の原点である神に帰ろう。


V.日常の平安が与えられる希望―「平安があるように」(口語訳)(9)

 この言葉は新改訳では「おはよう」だが、口語訳では「平安あれ」。日常の平安!

大切なのはこの言葉を主は先ず女たちー特にマグダラのマリヤ(1)に語られた。彼女は七つの悪霊に捉えられていた女。人生に大きな傷をもっていた人である。主はその様に何らかのトラウマや傷を持っている人たちに、日々の平安を祈り注がれる!

【適用】モンテーニュは「心配毎の的中率は1%」と語った。大いに参考にしたいが、心配性の人はその1%が当たったらと不安がる。しかしその1%が当たっても決して悪いようにはならないと信じれたら大丈夫でないか!∵ローマ8:28! 神の言葉を信じる事だ。例:私の名「正夫」が好きになれなかった。小学校国語に出ていて冷やかされたからだ。しかしやがて気に入った。「正」は「一」()に止まるだから。あなたも神に留まろう!



posted by kbcc at 14:10| 礼拝

2017年04月11日

2017年4月9日礼拝メッセージ「わが神わが神、どうしてわたをお見捨てになったのですか」マタイ27:46 音声で聴く。

マタイ27:46 「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」 17.4.9

【序】ある国立大学教授が教室で「世には自分を神だと言う様な偽宗教家がいるが最後には自滅する。キリストがいい例だ、『わが神わが神、何故自分を見捨てたのか!』と絶叫したではないかと批判した。その教室に教会員がいて、そんな批判に腹立たしく思って、どう弁明するか私に尋ねてきた。確かにこの46節の言葉は不可解!しかしこの意味を正しく理解するならここにキリスト教の中心のメッセージがある。受難週にこの一節の意味を伝えたい


T.キリストこそ聖書が預言している人類の救い主である

キリストを人間としか理解しない人は、この叫びの言葉を「神に裏切られた絶叫」と感じるが聖書を知らない無知な発言だ。実はこの言葉は詩篇22:1の言葉通りだ。人は苦しみの絶頂時に一言一句間違わずに祈れる冷静さはない。この時キリストは詩篇22篇に預言されている事柄が御自分の身に悉く成就しているのをご覧になり、御自分が旧約聖書に預言されたメシヤであることを示されたのである。

※詩篇22:7,8「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救いださせよ。彼のお気に入りなのだから」→十字架の場面で通り過ぎる人々の罵りそのもの。

※同22:16-18「犬ども(外国人―ローマ兵士)が私を取り囲み、私の手足を引き裂きました(十字架刑の釘)。彼らはわたしの着物を互いに分け合い。私の一つの着物をくじ引きにします」(ローマ兵の着物のくじ引き)


U.キリストこそ私たちに代わって罪の裁きを受けてくださった救い主である

全ての人は神から与えられた命をどう使ったか、死後に裁きを受ける。その基準はいかに愛と清さを生きたかであるが、人は言葉に於て、行いに於て、心の思いに於いて罪を免れえない。それゆえ神の裁きに耐ええず永遠の滅びを刈り取る。しかしここに愛がある。我々人間に代わって神の御子キリストが身代わりに神の裁きを受けて下さったのである。この46節の叫びは私たちに代わって神の裁きを受けてくださった印である。→Uコリント5:21「神は罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました」とある。キリストは私たちの罪からの救いをもたらすために私たちに代わって神から見捨てられてくださったのである。

【適用】我々の語ってはならない言葉の罪のために主は頬を殴られ、我々が掴んではならない手の罪のために主はその手に釘を打たれた、行ってはならない足の罪のために釘を打たれ、抱いてはならない感情の罪のために心臓を突き刺され…我々に代わって死後の裁きを受けてくださったのだ!


V.キリストこそ人生の矛盾の意味を知っておられる救い主である

人生には矛盾や理不尽な事が多い。なぜ正しい人が禍を受けるのか?なぜまじめな

人が重い試練に倒れるのか?なぜ幼い子供が殺されるのか?…これは古今東西の人

生の謎である。理屈など吹っ飛んでしまう。そんな時、罪のないお方が理不尽にも

極悪人として裁かれたキリストがおられる。※理不尽な十字架の後に復活があった

ように、人生の矛盾も意味が分かる時が来る。このキリストを知る事こそ真の慰め

と解決を知る道であるヨハネ13:7「わたしのしている事は今は解らないが、後で分かるようになります」

posted by kbcc at 09:13| 礼拝