2017年12月25日

2017年12月24日礼拝メッセージ「素晴らしい喜びの知らせ」ルカ2章8−12節音声で聴く。


ルカ2:8−12       「素晴らしい喜びの知らせ」       17/12.24

【序】もしキリストがお生まれにならなかったら、世界はずいぶん寂しく暗い年末になるだろう。ジングルベルも聖しこの夜もハレルヤコーラスも歌わなくなり、クリスマスプレゼントもなくなる。夜に輝くイルミネーションだってなくなる。世界最大の経済効果をもたらすクリスマスセールもなくなる…でもそれは究極的な損失ではない。本当の損失は人類の救いが無くなる事だ、その救いを聖書は「素晴らしい喜び」と語る、それを伝えたい。


「素晴らしい喜び」(10)とある。キリストが与えられる人間になくてはならない三つの喜び:  

T.生きる力を与えられる喜び

聖書に38年もの長い間病で立てない男が出てくる。38年とは余りに長い!

→三つの絶望 @直らない絶望 A友人に見捨てられた絶望 B人生に意味を見いだせない絶望…。

その彼にキリストは「直りたいのか」と語りかけ、その人に癒しと新しい人生を提供された。キリストは生きる力を与える喜びを今も提供される。

【輝く証人たち】

父に捨てられ孤児院で育ったサリバン先生もキリストに出会い三重苦のヘレンケラーを導いた。30歳で自殺しかないと悩んでいたヘナイチンゲールも看護師の鏡と言われ活躍した、5年に一度発症する鬱で悩んだ新渡戸稲造も教育事業で活躍した、頚椎損傷で首から麻痺した星野富弘も、キリストに出会い生きる力を与えられた。キリストは今なお世界中の人々に聖書を通して生きる力を与えられるのだ!


U.将来の不安から解放される喜び

人は様々な事を心配する。健康、人間関係、仕事、将来…。しかし「心配毎の的中率は1%」を御存知か?これは思想家モンテーニュが語った言葉「私の生涯は恐ろしい禍に満ち満ちたものに思われた。しかしその実際は起こらなかった。心配事の的中率は1%に過ぎなかった」正に経験者語るだが、それでも1%の心配事の的中率を心配するのが心配性の特徴だ。そのために不安を抱くのだが、その最大の原因は人間には未来が分からないということだ。しかしあなたの未来に祝福計画をもたれる神がおられるのだ。

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ―主の御告げー「それは禍ではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(エレミヤ29:11

同じ一回限りの人生なら、素直に信じて未来の祝福の希望を信じようではないか!


V.死に打ち勝つ永遠の命の喜び

牧師として多くの人の死と接してきた。言える事は死は最大の不安だという事。死の不安は三つある。@自分が全く存在しなくなる不安 A一切を手放す不安(愛する人や愛する物) B死後の世界で裁かれるのではないかという不安。 

しかしここに素晴らしい喜びが与えられる。キリストは死を打ち破って信じる者に永遠の命を賜るからである。

「事実、わたしの父の御心は、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます」(ヨハネ6:40)

posted by kbcc at 10:01| 礼拝

2017年12月20日

2017年12月17日礼拝メッセージ「恐れることはない」ルカ2章8−12節音声で聴く。

ルカ2:8−12        「恐れることはない」        15/12.13

【序】今世界中、恐れに囲まれている。北の脅威やテロの脅威…様々な災害や地震の不安、そして人生の不安…それで今日の主題にしたのではない。元々クリスマスそのものが「恐れからの解放」をもたらすメッセージなのである。それを伝えたい。


T.クリスマスは恐れからの解放のメッセージである

@イエスを胎に宿したマリヤに「怖がることはない」(ルカ1:30

 Aマリヤの婚約者ヨセフに「恐れないで」(マタイ1:20

B救い主誕生のニュースを聞いた羊飼いに「恐れることはない」(ルカ2:10

登場する中心人物に悉く「恐れるな」。正にこれは、クリスマスがキリスト誕生によって人間に恐れからの解放のメッセージを伝えるニュースである事を示す!


U.恐れの原因

  怖いものがあるという事が恐れの真の原因ではない。根はもっと深い。BC800年ごろ預言者エリシャの時代、イスラエルが敵軍に囲まれ、人々は恐怖におののいたが、神は目を開いて神の軍が守っていることを示された。(U列王6:15-17

恐れとは=見えないところで守る神を見ないで、見える事だけに怯える心。

信仰とは見える世界だけで生きてきた生き方から見えない神を信じて生きていく事である。その「見える世界」と「見えない世界」を結び付けるのが聖書である。

【証】ゼロからの開拓伝道で11年目に会堂建設に導かれた。教会員の皆さんの声が盛り上がってきたが、先ず神の御心を祈り求める中でマタイ16:18「わたしがこの岩の上にわたしの教会を建てる」の御言葉を得て確信した。多くの献金も集められ建築は進み献堂式を迎えたが、最終支払が待っている。ただ百万円不足しており、どうすればいいか思案していたが。三カ月前にノイローゼで教会に来、見事に癒された婦人が礼拝の前に来られ言われた「私は枚方の家の改築で金剛の娘の家に来ましたがノイローゼになっていたところ礼拝に来てメッセージを聞きすっかり癒されて感謝で一杯です。改築工事も終わり枚方に戻りますが、これは感謝の気持ちです、どうぞお納め下さい」と。紙袋の中はジャスト百万円だった。聖書を通して生きて働く神を知る経験だった!


V.神が人に「恐れるな」と語られる奥義

しかし「恐れるな」のメッセージにはもう一つ素晴らしい奥義がある。神が人に「恐れるな」と語られる言葉は、単に恐れを取り除くだけではなく、今まで経験した事がない様な神の力と祝福を示す前ぶれの言葉なのだ。

例:@モーセの時代にエジプト軍に紅海に追いつめられた民は聞きの中にあったが、神は「恐れるな」と語り、海を二つに割き救われた。(出エジプト14:13

A「恐れる事はない…素晴らしい喜びを知らせに来た。今日ダビデの町にあなた方のための救い主がお生まれになった」(10,11

故に人生で恐れの時とは見える世界に支配され縛られていた生き方から、見えない神の新しい祝福を体験する機会でもある。クリスマスにこの恵みを覚えよう!

posted by kbcc at 14:59| 礼拝

2017年12月14日

2017年12月10日礼拝メッセージ「キリストは単なる聖人か?」ピリピ2章6−11節音声で聴く。

ピリピ2:6−11     「キリストは単なる聖人か?」       17.12.10

【序】小学生時に先生が「世界には三大聖人がいる。釈迦と孔子とキリスだ」と言われ興味をもった。しかし後に分かった事は、先生が挙げた先の二人は聖人だが、最後のキリストは単なる聖人ではなかった。クリスマスシーズン、聖書の語るキリストについて正しく受け留めたい。


T.キリストの本質

神のみ姿であるのに人となられた」(6,7

notキリストは三大聖人の一人で天才的な宗教家で遂に死後神として祀られた。

But神としての栄誉を捨てて人となられたたお方。それがキリスト!

キリストが神であると信じられる理由:

@奇跡…嘘なら福音書自体が当時抹殺されていた筈A言葉…キリスト自身の言葉(父と同一) ユダヤでは日本と違って冒涜は死罪だった。その中でキリストはそう主張されたB人格…愛の極みー奇跡も自分のためではなく人の助けのため C世界的広がり

キリストは神に近い人間ではなく、人間となられた神である。そして大切な事はそのキリストはあなたと無関係な神ではないのだ。


U.キリストの目的

ではキリストが神の御姿を捨ててまで地上に来られた目的は何か?それは「(キリストは)…実に十字架の死にまでも従われた」(8)つまり十字架にかかって私たちを罪の裁きから救うためであった。故に私たちと無関係な出来事ではなかったのである。聖書には「人間には一度死ぬことと死後に裁きがある事が定まっている」(へブル9:27)とあるが、私たちは個々に言葉、思い、行いにおいて罪を犯してきたものである。更には根源的には創造者である神を信ぜず従ってこなかったという原罪の罪がある。その罪を自分では解決できない。そしてキリストはそんな私達の罪の裁きを身代りに受けてくださった、それが十字架である。その為に地上に生まれてくださったのだ。

 【比喩】@芥川龍之介「蜘蛛の糸」のお釈迦さんとキリストの違い…切れてしまう蜘蛛の糸による救いではなく、せめて太いロープにしてもらわないと!A崖から落ちて瀕死の怪我人に対してー釈迦「人生は無常だ、諦観が大事だ」 孔子「がんばれ努力が肝心だ」キリスト黙って崖の底に降りて行きけがを介抱し背負って登って救われた」人の罪と裁きを身代りに負って救いの道を開かれたその愛!


V.キリストの模範

4,5節でキリストは我々人間の生き方の模範だと語っている。その模範とは一言で言えば「自らを捨てる生き方(7,8)である。

獲得する事に終始してきた私たちは、喪失は辛い。しかし元々ゼロで始まった命!全部神から頂いたもの。それ故喪失ではなく与え主にお返しする事、更に信仰的に言えば神にお捧げする事!→「目を捧げ手を捧げクリスマス」(癩者、玉木愛子さん)

神はそのひとり子を私たちのためにお捧げ下さった。私達も「失う」事は「捧げる」ことであるというクリスマスの奥義を知ろうではないか!

posted by kbcc at 09:31| 礼拝