2018年08月12日

2018年 8月12日礼拝メッセージ「頑張る人の盲点」ルカ15章25-32節音声で聴く。中西正夫牧師

ルカ15:25−32頑張る人の盲点」        18/8.12

【序】務めに頑張る人は頑張らない人より遥かに良いのだが、一生懸命頑張る人に見えていない盲点がある。それが今日出てく放蕩息子の兄の姿に見られる。日本人は勤勉で頑張り屋が多いと言われるので聞いておきたいところだ


T盲点1−喜びのない頑張り

「長年あなたに仕え、戒めを破った事は一度もありません。しかし楽しめといって…」(29a)

大変に頑張ってる!しかし不満ありあり。家出した弟の分まで働く立派な兄を支えているのは責任感。これ自体は良い事。しかし頑張ってるが残念ながら喜びがない。良いをしているのに喜びや感謝がなく責任感だけで働いているのは独りよがりの頑張りに陥り易い

【例江戸時代の話…岡崎城水野忠善という殿様に天野半九郎という忠義者がいた。彼は6時起床というところを5時には起きて殿様の洗面のために桶に湯を入れ又馬を引いて待ち構える。何事も先へ先へと回り、一生懸命奉公したが殿様からお役ご免になる。納得がいかない天野は殿様に「私は殿様の御為に専ら歩んで参りました。何故のお役ご免でござりまするか!」と直談判。すると殿様曰く「お前の奉公はお前一人の奉公。他の者を凌いで、お前一人だけ奉公すればよいという奉公じゃ。余は肩が張ってかなわん。もうよいわ」と。独りよがりのガンバリズムは意外に自分が思うほど相手は喜んでない。→「喜びをもって主に仕えよ」(詩篇100:2)


U盲点2−愛がない頑張り

「遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰ってきたあなたの息子」(30)

「弟」なのに「あなたの息子」と言う。関係を切ってしまっている。冷たい心!

どんなに仕事ができても、正義でも愛がないというのは問題を解決しない。誰かのために頑張るのは立派だが「私は正しい」と頑張るのは相手が間違っていると発信しており、それは無限に人を傷つけている。それに気がついていない。聖書的に言えば、自分のまじめさや正しさで神の前に立てる人は一人もいない。太陽さえまともに見れない人間が太陽を作られた清い神の前に立てる人などいない。人間皆罪人。一寸できると思ったらすぐ鼻が高くなるその傲慢が一番大きな罪!愛のない中途半端な正義は問題!→Tコリント13:2「愛がなければ何の値打ちもない」


V盲点3−いに気がつかない頑張り

兄は「一匹ももらっていない」(29)と言うが「父は身代を二人に分けてやった」(12)から残りは自分のものの筈(12)。ほしければ食べればいいのに!報われていないと誤解して不満一杯。勘違いで生きている。 では「報い」とは何か? 

正しいことができるということ自体で充分報われている。良い事ができる、正しく生きられる、それ故信頼もされるということ自体、ちゃんと報いを受けている。

【適用】教会には概して兄タイプの人が集まる。兄の優秀さを更に磨きをかけて更に良い人間になろうとする。自分でやれるのであれば、やったらよい。しかしやればやる程やれない自分に気づく、そこからキリストを信じる必要が分かってくる!

posted by kbcc at 23:53| 礼拝

2018年08月06日

2017年8月5日礼拝メッセージ  「我に返った人」中西正夫牧師 ルカ15:11−24音声で聴く。

【序】人を二つのタイプに分ける事がある。よくしゃべる人と寡黙な人。派手な人とおとなしい人…今日の話はキリストが話された最も有名な譬え話で、全く性格が違う兄弟が出てくる。兄はまじめだが弟は放蕩息子と言われるくらい遊び人。ところがその弟息子の中に誰にも有る人間の共通の問題が見えてくるその問題と救いを伝えたい。

T.放蕩息子に見る人間の問題

「父」無しで生きようとする生き方

「お父さん、私に財産の分け前をください」(11)父から独立しようという訳だ。独立と言えば聞こえがいいが、要するに父から離れ父無しで生きようとする。この話は単に親子の話ではなく、父なる神と人間との話なのだ。つまり息子が父を否定し父から離れて生きる姿は、造り主である神を神として敬わない人間の罪の姿なのだ。

【適用】神の恵みあればこその命であり日々の命の筈なのに、まるで自分で命を作り生きているように思うのは錯覚なのだ

自分を制御できない弱さ

 幾日も経たないうちに弟は遠い国に旅立った「さあ自由だ、何でも好きな事ができるしかし彼は放蕩して湯水のように財産を使い果たし転落人生が始まる→「放蕩して湯水のように財産を使ってしまった」(13)(快楽に溺れ遊女に溺れたのだ(30)

彼はお金を使いこなせないだけではなく自分自身を使いこなせなかったのだ!

人間の根本問題は政治や経済にあるのではない。根本問題は無力にある。分かっていながらどうにもできない無力にある。【証】星野富弘氏のトラクト「本当の私は強くもなく立派でもなく、たとえ立派なことを思っても次の日にはもういい加減なことを考えるだらしない私だったのです」

U.放蕩息子の救い

そんな彼がどうして立ち直れたのか?

1.我に返ったこと(17)

父に反逆し放蕩に身を持ち崩した後、自分の生の終わりを覗き見た彼はハっと「本心に立ち帰った」我に帰るとは=自分の惨めさに気づく事。

【適用】人は他人からどんなに説教されても認めないし動かない。周りにもそういう人がいるかもしれない。大切なことは説教する事ではなく、「我に帰るよう」祈る事だ!

2.罪を認識したこと(18)

彼は自分の行為を「罪」と表現している原語で「罪」とは「的外れ」の意味があるが、弟息子は個々の罪以上に父から離れて生きている事を的外れと認識した

3.父のところに帰る決心をしたこと(20)

 彼は父のところに変える決心をしただけではなく実際に行動した

V.放蕩息子を迎え入れる父

「父親はかわいそうに思って走り寄って彼を抱き口づけした」(20)。ふつうユダヤの老人は走らない。しかし老いた父が走る!息子を迎えに走るのだ。これが神の愛!

【結び】あなたはこの放蕩息子のに身を持ち崩すことはなかっただろうが、根本の生き方において神無しでやって行けると錯覚してないか又無力において同じではないか?そう気づいた時あなたを咎めだてもしないで迎え入れる神の愛を知るだろう。父なる神に帰ろう!また家族のために祈ろう!

posted by kbcc at 09:30| 礼拝