2018年11月27日

2018年11月25日礼拝メッセージ 「世界幸福度ランキグ54位の日本」詩篇16章6-9節音声で聴く。

詩篇16:6―9    「世界幸福度ランキング54位の日本」    18/11.25 

【序】2018年世界幸福度ランキングで日本は54位で昨年より三つ下がった。G7では最下位。日本は世界第3位の経済大国で物質的には恵まれていても、幸福の実感がないという人が多い。そこで今日は少しでもその実感を持てるようになればと願いつつ幸福についてメッセージしたい。

T.幸福の秘訣

ダビデは6節で「測り縄は私の好む所に落ちた、まことに私への素晴らしい譲りの地だ」(6と自分の置かれた環境を好ましいと受け止めた幸せを語っている。これこそ幸せな人生である。もし幸せな仕事人生を送りたければ、自分の職場を好きになることだ。不幸な仕事人生を生きたいなら自分の職場を嫌いになることだ。幸せな家庭生活を送りたければ、自分の家族を好きになることだ。不幸な家庭生活を送りたければ家族を嫌いになることだ、幸福な信仰生活を送りたければ教会を好きになることだ。不幸な信仰生活を送りたければ教会を嫌いになることだ。幸福の実際的秘訣は環境の受容によるのだ。

U.悪環境を受け入れたダビデ

こう言うとある人は「そうだろうけれど、私の環境は全く悪い環境だ。それにこの詩篇の作者のダビデも王様だから、好きな環境と言えたのではないか?」と言われるかもしれない。しかし違うのである!【詩篇の背景】を見てみよう。

@この詩篇16篇はTサムエル26章が背景になっていて、ダビデが主君サウル王に仕えていた時代。王から妬まれ命さえ狙われて洞窟に逃げ込み、そこでの祈りが→1節。「神よ、私をお守り下さい」→最悪環境だった!  

Aしかしダビデが心を鎮め祈って示された事は→今はサウル王に追われて命の危機にあるが、かつて預言者サムエルから「あなたは次の王になる」と油注がれたことを思い巡らした。その時、今は命の危機にあるが、信仰的立場に立てば、必ず守られるであろう。更にこの悪い状況さえ将来のために良い訓練、糧になるだろうと受け入れることができたのである。その信仰に立った時→測り縄は私の好む所に落ちた。真に私への素晴らしい譲りの地(6)感謝したのであった。

V.自分の環境を良い環境と思えない、と言う方への励まし

【証】教団の教職セミナーで、あるベテラン牧師が新任教職者達に「あなたが働くこの教団は日本で一番良い教団です」と言った。すると「いろいろ問題もあるではないですか。どういう訳で?」「わかりません」「それなら日本一なんて言えないのでは!」「いやそう信じているんです」これは名答である!私達が置かれた環境が完全かどうかは問題ではない。大切な事は、「そう信じていくこと」なのだ。→8節「私はいつも私の前に主を置いた。主が私の右におられるので私は揺るぐことがない」 神があなたを訳あって今の環境に置かれたのだ。間違いをされない神があなたをそこで祝福するために置かれたのだ。そう信じる信仰が幸福につながる。

posted by kbcc at 14:06| 礼拝

2018年11月20日

2018年11月18日礼拝メッセージ 「人間ミナ平等」ルカ19章12−23節音声で聴く。

ルカ19:11−23        「人間ミナ平等」         18.11.18

【序】地球に73億もの人が住んでいるが、二人と同じ人はいない。私達は個性的にユニークに造られている。しかし私達はとかく人と比較して能力不足だとか、あれがあればと嘆き自信喪失や劣等感に悩まされている。今日のメッセージを通して励ましを得たいと思う。


T.ルカ伝とマタイ伝の違いの意味

この譬え話はマタイ25章でも似た話が出てくる。ただ違うのは預けられたものがそれぞれ5タラント、2タラント、1タラントと違うのに対して、ルカ伝では与えられたものは等しくみな1ミナである。この違いはどういう事か?

○マタイ伝―個性も含めそれぞれ能力が異なる姿を現している。例:勉強が得意な人

  と苦手な人、芸術が得意な人と苦手な人、運動が得意な人苦手な人。それぞれに差

があるのは現実。マタイ伝ではその預けられたものの違いを端的に表している。

○ルカ伝―みな1ミナである。これは人間としては等しく価値が同じであることが

  強調されている。聖書で言えば大祭司であれ、律法学者であれ、取税人であれ、

  差別された癩病人であれ盲人であれ皆等しい価値をもっている。

※唯この世では能力が有る者の方がより価値がある人間であるかの様に扱われ易い。又価値が平等といっても何をもってそう言えるのかを知る必要がある。


U.神の前に自分の価値を見出す場所はどこか

教会で皆さんが大事にしてくれる、それもあるだろう。又自分が教会で活躍できる奉仕がある、それもあるかも知れない。しかしそれは最大の自分の価値を見出す場所ではない。自分の価値を最大に見出す場所、それは十字架である―神の御子があなたの為なら身代わりに罪の裁きを受けてもこの命は惜しくはないとして十字架で死んでくださる程、あなたは愛の対象になっている。十字架こそあなたの最高の価値を見出す場所なのだ。→「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(Tヨハネ4:10

V.人の働きに対する神の評価は何か

「忠実さ」こそ神の評価基準! この世では幾ら成績を上げたか、幾ら儲けたか、が評価されるが→聖書では「儲けた額よりも忠実だったかどうか」である。

【適用】私たちは人と比較して「これがないとか、あれが有ったら」と悔やみ易い。しかし星野富弘氏が11月5日に福音功労章を授与されたがそのスピーチで「私は身体の機能を失って、できることは全てなくなったと思っていたが、神様は私に素晴らしいものを与えて下さった。口に筆を加えて絵をかくなんて想像さえしなかった。私の描いたものを目にして下さった方が少しでも神様の事を感じて下さったらこんな嬉しいことはありません」

「競争は足の早い人のものではなく…全ての人が時と機会に出会うから」(伝道9:11だから自分は才能がないとか自分は恵まれない、と嘆かないで、チャンスは等しく与えられていることを感謝して召されるまで進んで頂きたい。

posted by kbcc at 10:36| 礼拝

2018年11月12日

2018年11月11日礼拝メッセージ 「汝自身を知れ」ルカ18章9−14節音声で聴く。

ルカ18:9−14        「汝自身を知れ」         18.11.11

【序】「汝自身を知れ」とはソクラテスの言葉であるが、自分を正しく知るのは難しい。日本は「お客様は神様です」という文化なので、自己評価の基準は人である。しかし人が相手では自己評価もコロコロ変わるし、人を恐れてノイローゼになる場合もある。大切なのは揺るがない神の御前の自己評価である。二人の人物から学びたい。

  

T.自分を義とする者は神に義とされない

パリサイ人は自分の善行を数え上げる(11,12)が、嘘ではないだろうが神に義とはされなかった(14) 聖歌に「数えてみよ主の恵」はあるが、「数えて見よ自分の善行」は無い。こんな祈りをする人は余りいないがよく読むと「心の中で祈った」(11)とある。するとこれは他人事ではない。私達も心の中で思うところがあるからだ。

【例】「神様。私は礼拝も休まず、祈りも欠かさず、奉仕もできるだけしてきました、つきましては○○の恵みをお願いします」…。あるいは逆に「これだけあなたのために頑張ってきたのに…何故にこんな禍が?」

自分の善行で神の恵を引き出そうとしたり、逆に自分の真面目さで報われないと文句が出てくる

私たちが神に聞かれる祈りの根拠は、私たちの善行ではなく、ただ神の恵みである→「行いによらず…信仰による」(エペソ2:8,9


U.神の前に謙虚に罪を認める者は神に義とされる

取税人は謙虚に「こんな罪人の私を憐れんでください」(13と神に祈った。

1.原罪を謙虚に認める

多くのまじめな日本人は「罪人」といわれる事に抵抗を覚える。∵「罪」=盗み、殺人をイメージする。これは刑法上の罪。しかし聖書の罪は神との関係概念。

罪とは=神によって造られた人間が神との関係を持たない事→原罪という。

つまり子供が自分を産んでくれた親と口を利かない、親を無視、認めないとい

う関係が壊れた状態は最大の悲しみであり罪であろう。

【証】新島襄が禁書であった聖書を初めて読んだ時の回心…最大の罪は真の神を認めない事を知った。

2.日常の罪(言葉、行い)を言い訳無しに認める。

この取税人は一切言い訳をしていない。私たちは言い訳しがちである。エデンの園のアダムもエバも言い訳をした。(「自分も悪いかも知れないが相手はもっと悪い」は言うべきではないのだ。


V.神の前に罪を認めるとは具体的にどういう事か

聖書を読む事→聖書を読んで恥ずかしく思う個所が自分の罪である。

 説教も「この話はあの人が聞くべき、これはあの人が反省すべき事」ではなく先ず自分に対して聞くのが神の言葉に対する姿勢である。

【証】賛美に引かれて教会に通い始めた婦人、お説教にも感動したが帰宅すると夫に皮肉を言う。「私はいいけどアンタこそ教会で懺悔すべきよ…」やがてある日自分の罪を示され夫への愚痴がぴたりと止んだ。すると夫が教会に行き救われた。

posted by kbcc at 14:17| 礼拝