2019年02月17日

2019年2月17 日礼拝メッセージ 父よ彼らをお赦しください ルカ23の33から38 (1)音声で聴く。

ルカ23:3−38 「父よ。彼らをお赦しください」

【序】人は生きてきたように死んでいくというのが多くの方を拝見しての実感である。日頃から感謝している人は死ぬ時も感謝して死んでいかれる。普段から人に当たり散らしている人は死ぬ時も当たり散らして死んでいかれる。死ぬ時だけカッコよく決めるというのは難しいキリストが最後の時を過ごす十字架の上で祈られた「父よ…」と祈る祈りの中に正にキリストの生涯がそのまま表れている。この言葉が示すキリストの恵みを伝えたい。


T.キリストの完全な

「父よ、彼らをお赦しください」この祈りの中に神の愛をはっきり知ることができる。この祈りを人間の祈りと比較すると、自分が赦しているのでなければできない祈りだ。

【例】あなたを苦しめる者を想像してほしい。その人に憤りを持っていながら「神よ。あの人を赦してやって下さい」は祈れない。自分が赦していなければ不可能…。

それを思えばキリストは心底人を赦しきっておられる事が分かる。ここに人と神の違いをはっきり知る事ができる。人は神がいるのかいないのか議論してきた。又神が愛ならなぜこんな苦しみがあるのかと文句を言ってきた。しかしこのキリストの敵をも赦しとりなす祈りの中神の存在と神愛を知る事ができるのではないか!

正に神の愛を実践されるキリストこそ人となられた神の御子なのだ!


U.キリストの完全な赦し

この「赦し」=アフィエミという原語→「帳消し」という意味である。帳消とは、

完全になかったことにする、との意味である。人は忘れてはいけないことを忘れ、忘

れるべきことをいつまでも根に持つどうしようもないところがあるが、このアフィエ

ミは記録からも記憶からも帳消しなのである。私達が死んだとき神から与えられた

命をどう使ったか裁きを受けるが、言葉、思い、行いにおいて罪をもっている私たち

は誰がその裁きに耐えられよう。キリストを信じる時、この罪の事実を一切記録から

も記憶からも帳消しにされる。何という特権!イザヤ43:25


V.キリストの完全な救い

彼らを…」→「彼ら」とは誰か?釘打つ兵士か?死刑の判決を下したピラトか?見

捨てて逃げた弟子達か?主に癒され希望を見いだしたのに勇気がなくて声を上げな

かった人か?確かに「彼ら」とは当時のその人達だった。しかしそれだけだろう

か?【バッハのマタイ受難曲で】「誰が主を十字架に付けたか?」私が十字架に付けました

「彼ら」とは時代を超えてあなたであり私なのだ

主に癒され希望を見いだしたのに真理のに声を上げる勇気がなかった群衆はあなたであり私ではないのか?…正しい事が何か判った結局自分の出世のために良心を裏切って行動したピラトはあなたであり私ではないのか?信仰告白し従ってきたが、ここという時怖くて逃げた弱腰弟子はあなたであり私ではないのか?この十字架の場面は時間を超えているのだ。間を超えてゴルゴタの丘に立ち、時に強く否定し、時に言い訳がましく否定しながら、兵士の釘打ちに加わっているのはあなたであり私ではないのか?!


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2019年02月10日

2019年2月10 日礼拝メッセージ 「こんな恵みに変わるとは」 ルカ23の26 音声で聴く。

ルカ23:26「こんな恵みに変わるとは!」    

【序】昨夜TVでフィギュアスケート世界大会の放送があったが実は数時間前に結果が分かっていた。嬉しい事前もってわかってしまうと感激が無くなるが重たを負わされる事では、後で素晴らしい恵みに変わる事が前もって分かっていたらそう落ちこまない人は明日がわからないが聖書は前もってわからせてくれる神の言葉だ。

今日の人物は突然十字架を負わされたシモンの話し。当初それは恥ずかしく嫌で仕方がない事であったが、後に栄誉と恵みに変わった。この短い1節が語るメッセージは何か、励ましになれば幸い

T.人生に偶然はない

クレネ人シモンの事を考えると人生に偶然はない事を感じる。キリスト十字架を負わされゴルゴタまでの道の途上、たまたま田舎から商売で出て来ていたシモンの目の前で、徹夜の裁判で疲労困憊の中、バッタリと倒れられた。そこでローマ兵士に「代わりに十字架を負えと命じられてしまう。に聖書が語るようにシモンはこの事が基で救いを経験するそれを思えば、この出会い不思議さを感じる。前日でもダメ翌日でもダメ。その日のうちのこの時間でないとダメ。しかも刑場までの800メートルもあるドロローサ(悲しみの道)と呼ばれる道でキリストが倒れた場所になぜかシモンは立っていた!これは偶然では説明つかない出会いである!

【適用】「雀一羽でも…父のお許しなしには地に落ちる事はありません」(マタイ10:29)

あなたの人生に起こることに偶然はないのだ。神の摂理がある!


U.負わされた重い十字架も後で意味が分かる

しかし負わされた重い十字架も当初恥ずかしく嫌だっただろう。しかしシモンが経験したことが大きな意味を持つのはマルコ15:21を読めば解る「アレキサンデルとルポスのと父でシモンというクレネ人つまりシモンは後に信仰を持ち子供達も信仰を持った事が分かる。救われた後で救い主の十字架を負うことの栄誉がわかった。神の選び!

【適用】人生の途上で降って湧いたような負わされた出来事の意味が分からない事があるものだが、直ぐに解ろうとする必要はないのだ。分かる→ヨハネ13:7


V.十字架を負うとは何を意味するか

ところで「十字架を負う」とはいかなる意味か?十字架を負うとは、生来負っている苦しみの様に理解されるが、それは「重荷」であり、重荷はキリストに負って頂けるものである。十字架を負うとは、本来負わなくてもよいが、敢えて信仰と使命の故に負っていくである。キリストの十字架もそ。キリストは罪人ではないのに私達罪から救うために敢えて十字架を負って下さったこの十字架を負う生き方ほど神からの栄誉は他にないのである。

【適用】あなたにもこの「十字架」があるのではないか?本来負わなくても物かもしれないが、敢えて信仰と使命の故に負っていく十字架!誰か世話という十字架。重い責任いう十字架。病気を負う十字架。文句の一つも言いたいかもしれないが、考えるべきは、負わしたのは誰か?ローマ兵士ではなく神ではないか神はこの人と思う人に最高の十字架を負う使命を授けられる!

感謝をもって十字架を担って行こうではないか!

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2019年02月03日

2019年2月3日礼拝メッセージ 「神が遠くに見える時」ルカ22の54から62 音声で聴く。

ルカ22:54−62神が遠くに見える時」  

【序】今日の説教題を「神が遠くに見える時」とした。実際は神様が遠くにおられることはないのであるが、遠くにおられるようにしか感じられない時があるものだ。

今日の聖書で出てくるペテロがそうだった。そこで@どうしてそう感じたのか。またAその時どんな結果があったのか。Bその回復の道、についてお語りしたい。


T.神が遠くに見え原因

 聖書は端的に語る「ペテロは遠く離れてついて行った」(54)

近くでもない、完全に離れてでもない中途半端な立ち位置。この立ち位置では神が遠くに見えてしまう。でもなぜ「近くに」行かないのか?→恐怖心神の御子さえ守られず逮捕されたのなら自分などもっと悪い事が起こるのでは…という恐れからだ。

【適用】あなたも何らかの問題で将来神が守ってくれなかったらと恐れているだろうか…しかしヨセフを思い出そう。17歳の時、兄達から虐待を受けた時、どこからも助けは無かった。エジプトでやっ仕事も得てこれで生活できるかと思った冤罪で牢獄にぶち込まれ時も助けは無かった。牢獄でもエジプト高官の夢を解き明かして救出を頼んだが、助けは来なかった神は見捨てられたのか?否!神の助けはもう少し後の最善の時に行われた。パロ王が夢を見牢獄から呼び出され、夢解きを行い、それが出世の始まりであった→「私は慌てて言いました。私はあなたの目の前から絶たれたのだと。しかしあなたは私の願いの声を聞かれました」(詩篇31:22)


U.中途半端な立ち位置がもたらしたものー苦い結果

三度キリストを「知らない」と否んでしまう大失態!立派な信仰告白をし、弟子の

リーダーのペテロなのに大失態ペテロ自身も思ってもみなかったキリストへの裏

切り。どこに原因があったのか?ルカ22:33「覚悟はできております!」

本来信仰は自分の力に依存するのではない、神への信頼が拠り所であるのだ。主の

執り成しの祈りの故に支えられている


V回復の道―キリストの愛の眼差し

ペテロが裁判の内庭で三度目にキリスト否んだとき「鶏が鳴いた」(60)。その時「主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは「外に出て激しく泣いた」(62)

彼が激しく泣いたとあるが、彼の涙の理由は何であろうか?

勿論キリストを三度も裏切ってしまった自分無様な姿に対する悔い故の涙であるだろう。しかしそれ以上涙の理由があるように思われるそんな裏切ってしまう不甲斐ない自分のような者の為に、信仰が無くならないようにひたすら祈り、立ち直ったら兄弟たちを励ましてやりなさいとまで言って下さるキリストの愛の大きさに泣いた涙であっただろう。この時キリストの御顔は平手打ちを受け、拳で殴られ、唾をかけられ流れていた。しかし主は知らず知らず堕落の坂を駆け下りつつあるペテロのために祈り続けるキリスト、キリストの眼差し!この愛を感じた時に人はそこまで愛される神の愛を近くに感じ、変わり得るのではないだろうか!

posted by kbcc at 13:05| 礼拝