2019年02月24日

2019年2月24日礼拝メッセージ 詩篇84・5-7「泉の湧く生涯 」音声で聴く。

詩篇84:5―7「泉の湧く生涯」

【序】ラジオで「子供相談」がある。小1生「キリンの首はなぜ長いの?」専門家「それは氷河期に木の上にしかない木の実を首を伸ばして取っているうちに長くなったんだよ。わかった?」「はーい」(なぜ同じ氷河期にいたはずの熊やパンダは首が短いのか?!その答ってホント?)その中で小6生「人間の生きる目的は何ですか」専門家(マイクをお互い譲りながら「それは先生にも解らないんだよ。でも一つのことは、「生きたい」と「生きる」の違いに気付くことだよ」(???益々意味不明)→聖書から聞いて頂きたい。特に今日の主題「悲しみ」についてのメッセージ!


T.悲しみを経験する理由

今仮に喜びの日々だからといって一生喜びの連続はないだろう。また逆に今悲しみの日々だからといって一生悲しみが続くのでもない。人生は喜びも悲しみも経験する。私たちの課題は、その悲しみをどのようにして乗り越えて行けるか、ということだ。

私達が涙の谷を歩んでいるとき、色々と間違った理由付けを聞かされる。

悪い星のもとに生まれたからだ。お祓いが必要だよ。

何か悪い事をしたのではないのか。反省せよ。

心がけが悪いからだ。気持ちを切り替えて。

しかし聖書はそう言わない。→「そこを泉の湧くところとします」(6)

まことの神、愛の神の御心は、涙が癒されるだけではなく、その経験を通して、あなた自身と周りの人に泉が湧き上がる様な経験に導く事にある。つまり、あなたが涙の谷を通っている理由は「泉の湧く生涯への招き」だったのだ。


U.三つの避けるべき生き方

1.「涙の谷」をじっと見つめて過去から離れない生き方 

悲しみ経験が大きいから、それを受容できない時がある。しかし前向きに生きる為に、どこかで現実を受容する事が必要である。

2.当たらぬ言い訳に終始する生き方

イソップに出てくる狐の様に、手の届かない葡萄を「あれは酸っぱい葡萄」と決めつけて、取る努力をしない生き方。しかし言い訳ばかりでは正しい自己反省も新しい力も得られない。

 3.恨みで生きる生き方

   この不幸をもたらしたのはあの人、環境、神様にある、と恨んで生きている。恨みからは何ものも良いものは生まれない。


V.泉湧く生涯の秘訣

「何と幸いなことでしょう。その力があなたにあり、その力があなた(神)にありその心がシオンへの大路にある人」(5)

「あなた」とは神ご自身。人間の作った偶像の神ではなく、あなたを造られた愛の神。悲しみも苦難も益に変えて下さる真の神。その神を信じ礼拝する人生に「泉が湧きあがる生涯」が起こる。【証】横田早紀江さんの証(次頁参照)

横田早紀江さんの信仰体験談(キリスト教全国大会での証)

たち家族は、銀行員の転勤族で、主人と娘、双子の息子の三人の子に 恵まれ、ごくありふれた、ささやかな幸せを味わう家族でした。 主人の転勤で広島より新潟へ引っ越してきて、一年3ヶ月がたった 昭和52年11月15日の夕方、この思ってもみなかった事件が起きたのです。                           新潟の秋は淋しく、中学1年生のめぐみが下校する頃は、もうとっぷりと 日が暮れておりました。めぐみはこの秋、バドミントンの選手に選ばれ、 新潟市の強化選手として遅くまで練習し、部の女友達と三人で 海岸へ向かうくらい道を帰ってきました。友人二人と別れ、もう4、5分の 自宅までの暗い曲がり角で、忽然と姿が消えてしまったのです。                                 

それからは、大変な捜索となりました。新潟県警始まって以来の ヘリコプター、巡視船まで出た捜索活動が、毎日続けられました。 私たちは、失神しそうになりながら、ポスターを全国に貼り、またテレビの呼びかけ番組 にも4度出演し、少しでも似た少女の写真や絵を見かけるとすぐに 問い合わせたり、出かけたり、本当に気が狂ってしまうような毎日でした。 「どうか!どこかに生きていてほしい!もし悪い人に命を絶たれていたら…」 と絶叫したい気持ちで探し回っておりました。ですが、どんなにしても何一つ手がかりがなく、目撃者もなく、 一ヶ月、半年、一年と時だけが過ぎて、私はただ打ちひしがれ、虚しさだけが 心に満ちてくるばかりでした。それでも、「今日はあの元気な声が 明日は、あの明るい笑顔が玄関に現れるに違いない。」そんな思いを 持ち続けました。  主人や息子たちが勤めや学校に出かけた後は、悲しみがどっと 押し寄せてまいりました。こんなに悲しい目にどうして合うのでしょうか。 どうすれば立ち上がれるのか。どんなに号泣してみても、いきも止まれと 止めてみても、悲しい朝はやってきます。                          「子供は親の鏡、親の全てを現します。」とか「因果応報」とか、 いろんな宗教の人が来て、悲しい心に突き刺さるような言葉を 残していきました。私は祖先に思いを馳せて、誠実で質素な 温かい父母を思い、泣きました。現実的にできるだけ、質素に、物を大切に、人に迷惑をかけず、 悪いことは勇気をもって悪いといえるようになど両親から教わり、育ててもらいました。

あまりに悲しむ私に、クリスチャンの友は 聖書の言葉で励ましてくださいました。 生まれつきの盲人を見て、イエスの弟子がその理由を聞きますと イエスは次ぎのように答えられました。初めて聞く不思議な言葉でした。 「この人が罪をおかしたのでもなく両親でもありません。 神の業がこの人に現れるためです」ヨハネ9章3節  

そんな時、娘と同学年のお子様のお母様が、「聖書を学ぶ会」の誘いに こられ、聖書を置いて帰られました。この悲しさの中、小さな字の 分厚い聖書をどうして読むことができるのかと切ない思いでした。 それでも、たった一人で天井を見上げ、涙にくれるしかない私は 何気なく聖書のページを繰り始めました。彼女は、確か ヨブ記を読むようにと言ってたっけ・・・。 この時が、神ご自身が私の心にまっすぐに光を差し込んでくださった 最初の時でありました。   

「私は裸で母の胎からでた。また、裸で私はかしこに帰ろう。 主は与え、主は取られる。」 旧約聖書 ヨブ記1章21節 

人の生も死も、必然的に訪れるものである奇しさを日ごろから考えて いましたが、この言葉は何と深いのでしょう。私は、真面目に育てられた ことを良しとしていましたが、そこには神の、それも八百万の神ではなく 見えない真実の神の存在が、関わっていることを知ったのでした。 始めて深呼吸ができ、久しぶりに空気がおいしく思えました。 

私は、むさぼるように聖書を読み始めました。今まで聴いたことのない 魂に深く、それも痛みをもって心地よく染みていくこの本は、 なんという本でありましょうか。 

いつの間にか、私の目から悲しさからだけではない、不思議な感動の 涙がとめどなく流れ落ちてゆきました。自分の小ささを思わされ、 生まれたままの状態で、自分の真面目さを「是」としていた汚さを いやというほど、気づかされるばかりでした。 

罪あるすべての人間を救うために、十字架の苦しみを経験され、 全人類の罪をあがなってくださったイエスさま、そして、この方を世に 遣わされた神の遠大な愛のこと、はじめて知る感動でした。 こうして神を信じる恵みの中に置いていただき、集会に教会にと 喜んで出させていただくことになり、昭和59年5月(これは はからずも、不明の娘が成人の年でした。)洗礼を受けました。 

「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。私はそれで あなたのおきてを学びました。」 旧約聖書 詩篇119:71 

そして「神も仏もあるものか」とあれほど頑なにキリスト教を拒んでいた夫も2017年11月4日に洗礼を受けました。感謝で一杯です」

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2019年02月17日

2019年2月17 日礼拝メッセージ 父よ彼らをお赦しください ルカ23の33から38 (1)音声で聴く。

ルカ23:3−38 「父よ。彼らをお赦しください」

【序】人は生きてきたように死んでいくというのが多くの方を拝見しての実感である。日頃から感謝している人は死ぬ時も感謝して死んでいかれる。普段から人に当たり散らしている人は死ぬ時も当たり散らして死んでいかれる。死ぬ時だけカッコよく決めるというのは難しいキリストが最後の時を過ごす十字架の上で祈られた「父よ…」と祈る祈りの中に正にキリストの生涯がそのまま表れている。この言葉が示すキリストの恵みを伝えたい。


T.キリストの完全な

「父よ、彼らをお赦しください」この祈りの中に神の愛をはっきり知ることができる。この祈りを人間の祈りと比較すると、自分が赦しているのでなければできない祈りだ。

【例】あなたを苦しめる者を想像してほしい。その人に憤りを持っていながら「神よ。あの人を赦してやって下さい」は祈れない。自分が赦していなければ不可能…。

それを思えばキリストは心底人を赦しきっておられる事が分かる。ここに人と神の違いをはっきり知る事ができる。人は神がいるのかいないのか議論してきた。又神が愛ならなぜこんな苦しみがあるのかと文句を言ってきた。しかしこのキリストの敵をも赦しとりなす祈りの中神の存在と神愛を知る事ができるのではないか!

正に神の愛を実践されるキリストこそ人となられた神の御子なのだ!


U.キリストの完全な赦し

この「赦し」=アフィエミという原語→「帳消し」という意味である。帳消とは、

完全になかったことにする、との意味である。人は忘れてはいけないことを忘れ、忘

れるべきことをいつまでも根に持つどうしようもないところがあるが、このアフィエ

ミは記録からも記憶からも帳消しなのである。私達が死んだとき神から与えられた

命をどう使ったか裁きを受けるが、言葉、思い、行いにおいて罪をもっている私たち

は誰がその裁きに耐えられよう。キリストを信じる時、この罪の事実を一切記録から

も記憶からも帳消しにされる。何という特権!イザヤ43:25


V.キリストの完全な救い

彼らを…」→「彼ら」とは誰か?釘打つ兵士か?死刑の判決を下したピラトか?見

捨てて逃げた弟子達か?主に癒され希望を見いだしたのに勇気がなくて声を上げな

かった人か?確かに「彼ら」とは当時のその人達だった。しかしそれだけだろう

か?【バッハのマタイ受難曲で】「誰が主を十字架に付けたか?」私が十字架に付けました

「彼ら」とは時代を超えてあなたであり私なのだ

主に癒され希望を見いだしたのに真理のに声を上げる勇気がなかった群衆はあなたであり私ではないのか?…正しい事が何か判った結局自分の出世のために良心を裏切って行動したピラトはあなたであり私ではないのか?信仰告白し従ってきたが、ここという時怖くて逃げた弱腰弟子はあなたであり私ではないのか?この十字架の場面は時間を超えているのだ。間を超えてゴルゴタの丘に立ち、時に強く否定し、時に言い訳がましく否定しながら、兵士の釘打ちに加わっているのはあなたであり私ではないのか?!


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2019年02月10日

2019年2月10 日礼拝メッセージ 「こんな恵みに変わるとは」 ルカ23の26 音声で聴く。

ルカ23:26「こんな恵みに変わるとは!」    

【序】昨夜TVでフィギュアスケート世界大会の放送があったが実は数時間前に結果が分かっていた。嬉しい事前もってわかってしまうと感激が無くなるが重たを負わされる事では、後で素晴らしい恵みに変わる事が前もって分かっていたらそう落ちこまない人は明日がわからないが聖書は前もってわからせてくれる神の言葉だ。

今日の人物は突然十字架を負わされたシモンの話し。当初それは恥ずかしく嫌で仕方がない事であったが、後に栄誉と恵みに変わった。この短い1節が語るメッセージは何か、励ましになれば幸い

T.人生に偶然はない

クレネ人シモンの事を考えると人生に偶然はない事を感じる。キリスト十字架を負わされゴルゴタまでの道の途上、たまたま田舎から商売で出て来ていたシモンの目の前で、徹夜の裁判で疲労困憊の中、バッタリと倒れられた。そこでローマ兵士に「代わりに十字架を負えと命じられてしまう。に聖書が語るようにシモンはこの事が基で救いを経験するそれを思えば、この出会い不思議さを感じる。前日でもダメ翌日でもダメ。その日のうちのこの時間でないとダメ。しかも刑場までの800メートルもあるドロローサ(悲しみの道)と呼ばれる道でキリストが倒れた場所になぜかシモンは立っていた!これは偶然では説明つかない出会いである!

【適用】「雀一羽でも…父のお許しなしには地に落ちる事はありません」(マタイ10:29)

あなたの人生に起こることに偶然はないのだ。神の摂理がある!


U.負わされた重い十字架も後で意味が分かる

しかし負わされた重い十字架も当初恥ずかしく嫌だっただろう。しかしシモンが経験したことが大きな意味を持つのはマルコ15:21を読めば解る「アレキサンデルとルポスのと父でシモンというクレネ人つまりシモンは後に信仰を持ち子供達も信仰を持った事が分かる。救われた後で救い主の十字架を負うことの栄誉がわかった。神の選び!

【適用】人生の途上で降って湧いたような負わされた出来事の意味が分からない事があるものだが、直ぐに解ろうとする必要はないのだ。分かる→ヨハネ13:7


V.十字架を負うとは何を意味するか

ところで「十字架を負う」とはいかなる意味か?十字架を負うとは、生来負っている苦しみの様に理解されるが、それは「重荷」であり、重荷はキリストに負って頂けるものである。十字架を負うとは、本来負わなくてもよいが、敢えて信仰と使命の故に負っていくである。キリストの十字架もそ。キリストは罪人ではないのに私達罪から救うために敢えて十字架を負って下さったこの十字架を負う生き方ほど神からの栄誉は他にないのである。

【適用】あなたにもこの「十字架」があるのではないか?本来負わなくても物かもしれないが、敢えて信仰と使命の故に負っていく十字架!誰か世話という十字架。重い責任いう十字架。病気を負う十字架。文句の一つも言いたいかもしれないが、考えるべきは、負わしたのは誰か?ローマ兵士ではなく神ではないか神はこの人と思う人に最高の十字架を負う使命を授けられる!

感謝をもって十字架を担って行こうではないか!

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