2019年06月03日

2019年6月2日礼拝メッセージ 「心の開眼」ルカ24章13-35節音声で聴く。

ルカ24:13−35          「心の開眼」        19/6.2

【序】人間の目って不思議。目の前にあるのに見えてないことがある。視力が原因ばかりではない。勘違いしているとか、心が違うことで一杯になっていると、目の前にあるのが見えない訳だ。…今日の箇所は二人の弟子達に復活されたキリストが近づかれたが、そのお方がキリストだとはわからなかった。今日は「心の開眼」と題してメッセージしたい。


T.目の前の真実が見えてない訳

 隣に復活のキリストがおられるのに分からない。聖書は「遮られている」からだと語る。

もう少し具体的に言うと二つのことが考えられる。

1.失望のために見るべきものが見えなくなっている

    弟子達はイエス様に「望みをかけていた」(21)しかし十字架に架かって死んでしまい、望みが絶たれた(20失望とは単に望みが無くなる事ではない。失望とは失ったものばかりが大きく見えてしまい、見るべき神が見えなくなる事だ。

【適用】涙で曇った目には空を見上げても星が見えないように、失望が大きいと目が遮られて希望が見えない→信仰と希望は神にかかっている」(Tペテロ1:21

  2.考え違いのために見るべきものが見えなくなっている

    エマオ途上の弟子達はキリストを「力ある預言者」(19)としてしか理解しておらず、神の御子が復活するなんて信じられなかった(25)経験や理性を超えられなかった。

【適用】かつて1年間熱心に礼拝に通われた方がいた。その後挨拶をされて通われなくなった。理由はキリストが天才的な宗教家とは思えても、どうしても神の御子とは信じられない。結局自分の理性の域を超えられなかった。求道者よ。究極は自分の理性を信じるか、聖書を信じるかのどちらかである。


U.キリストは真実が分かるまで共に歩んで下さる

励まされる事は、真理が見えず不信仰と小さな理性の世界にいる弟子達のことを、キリストは真理が分かるまで見離さず共に歩んでくださることである。

【適用】「胎内にいる時から担われており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になってもわたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。尚、わたしは運ぼう。わたしは背負って救い出そう」(イザヤ46:34)

私達も主が共に歩んでおられるのに分からぬ時がある。一人だ、孤独だと思っていても、実際は主があなたと共に重荷も背負い担っていて下さるのだ。


V.目を開かせるもの

御言葉の正しい解き明かし。これによって目が開かれていく(27)

【証】「心の開眼」を通して家族の救いが次々と展開していった証…(次頁参照)


東京在住の38歳で癌になられた婦人がいた。熱心なクリスチャンであったが、末期癌と分かり、家族は口々に「あんたみたいな熱心な人でもこんな病になるのか!」と夫や姑そして子供までもがそう非難する。彼女も「なぜ私がこんな病に?」と悩んだがある晩夢を見た。十字架に掛かったイエス様の姿の夢。すると段々イエス様の姿が消えて、今度は自分がイエス様と共に十字架にかかっていく姿。そのとき神の声が聞こえてきた「わたしはあなたの重荷を知っている。わたしのすることに間違いはないのだから一切をわたしの手に委ねなさい」夢が覚め平安が来た。それから迷いは無くなった。あと何カ月生きることができるかわからないが、御手にゆだねて日記をつけ出した。祈りの日記。「今日もお父さんのために祈った。お義母さんの救いのために祈った。あの放蕩して家を飛び出した弟のためにも祈った。子供のためにも」と。自分が苦しいなんか一つも書かず祈りだけのノート。でもだんだん身体も弱くなり字もかすれてきた。それでも書き続けた。そういうことがあっても家族の態度は変わらなかった。とうとう召され、告別式が行われた。牧師は臨終に駆け付け、誰にも見せなかったノートを見つけそれを告別式で読んだ。その時親に迷惑をかけて家を飛びだしていた弟がワーッと泣き出した。なんだかんだとケチをつけていた姑も泣き出した。夫も泣き出した。とうとう告別式が終わる時、弟が前に出てきて「姉はこんな苦しいのに、僕のために祈ってくれていた。何と僕は神様に背を向けた罪人か!神さま、赦してください。今日からキリストを信じます」すると仲の悪かった姑も「私も信じるわ」夫も「私も教会に行く」と。その婦人の「心の開眼」を通して家族の救いという祝福をもたらしたのである。

エペソ1:18「心の目がはっきりと見えるように…」


posted by kbcc at 21:26 | TrackBack(0) | 礼拝