2019年09月29日

2019年9月29日礼拝メッセージ 「計り知れない恵み」第一テモテ6: 7,8

Tテモ6:7-8       「計り知れない恵み」    


【導入】酸素ボンベ1ℓ=200円。1日分(1,600ℓ)購入すると32万円になる。無意識のうちに、様々な恵みが与えられている。聖書は、私たちの覆われた目を開き、見えない世界を見せてくれる。パウロの言葉から学ぼう。


T満足・不満足は自分で決定できる


私たちは普段、感謝よりも不満の方が多いかもしれない…。物事が順調でなければ、感謝はできないだろうか?パウロは言う。衣食があれば、それで満足すべきです。(8)」私たちは衣食住に恵まれているが、海外には、食べるにも事欠く人々がいる。けれども、彼らは厳しい現実の中でも笑顔がある。私たちと何が違うのか?

「もっと多くを獲得すれば幸せになれる」という考え方はないか。欲しいものを手に入れると満足するが、必要最低限が満たされただけでは満足しないのだ。ある程度の収入、財産etc.を標準と見なし、不足を数え上げる。一方、貧しくても笑顔の人々は、環境を受け入れている。不便も甘んじて受け、与えられたものを満足している。


【適用】問題は、私たちの環境にあるのではなく“考え方”にある。満足は“所有”によって決まるのではない。与えられた状況をどう捉えるかだ!それは、自分で決定できる。満足か不満かを選ぶのは、私たち自身だ!


U.“当たり前”は当たり前ではない


聖書は「衣食があれば、満足すべきです」と、衣食だけでも満足できる生き方があることを教えている。なぜ、満足できるのか。「私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。(7)」

生来、私たちは何も持っていなかったことを覚えなければならない。誕生さえ自分の意志によるのではない。

生まれる時代も、場所も、性別も、神が全てを決定されたのだ!今、持っているものも、与えられたに過ぎない。また、私たちは命の長さも、自分で決定できない。生きている間に、カネ、地位、能力、人間関係、家庭etc.を身につける。しかし、どんな優れた人物であれ、全てを置いて死ななければならない。


【証】先日、私は原付で転倒した。出血したが、すり傷で済んだ。治療を受けながら、「主が助けて下さった。この程度で済んだ」と感謝で満たされた!健康も当たり前ではない。恵みに目が開かれる時、喜びが湧いてくる!

【例】『もし世界が100人の村だったら』(2001年)→当時63億人の人口を100人の村に縮めると…!?


【適用】「持っている」のが当たり前ではない。「持っていない」のが当たり前であり、聖書が示す正しい視点だ。

これが分かると、小さな事にも感謝の思いが溢れる。好ましくない環境でも喜ぶことができる!


V持っているものを見直そう


日常生活に戻ると、感謝できないという方へ。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい。(使徒3:6)」御名=神との個人的な関係。→全てを与えられたに等しい。聖書の約束は全てあなたのものだから!(マタ6:33、ロマ8:28、詩50:15 etc.


【適用】私たちは既に、計り知れない恵みが与えられている。それを思い起こす時、感謝と喜びに満たされる!

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2019年09月23日

2019年9月22日礼拝メッセージ「置かれた所で生きる」 ルカ 13: 6 ‐ 9音声で聴く。

ルカ13:6−9  「置かれた所で生きる」  19/9.22
【序】私達には置かれた環境がある。家庭、教会、職場、学校…。大事なものだが、その置かれた環境に確信が持てなくて、不安になる場合がある。神の御心を聞こう。

T.合う、合わないが決定の基準とは限らない
普通、葡萄園には葡萄が植えられている筈だが、ここでは「葡萄園」に「無花果」の木が」植えられている(6)。これはイスラエルでも相応しいわけではない。何かの不都合で、又はやむにやまれずこういう形がとられた様だ。これは大事な真理でもある。つまり人生には、合う、合わないで判断するのではなく、置かれた所で腹を決めて生きる事が大切だという事。
【適用】夫婦というのは不思議。結婚した時はピタッと合うと思って結婚するが、5年も経つと合わないと感じることが多いのではないか。ご夫婦に聞くと「私、主人とは性格が全然違います」という奥さんが多い。しかし大切なのは、合う、合わない、ではなく、導かれた所で生きるという事。

U.なぜ置かれた所で生きる事が大切なのか
その無花果を置いたのは「主人」!同じ様に、あなたをそこに導かれたのは神なのだ。人生には人間的には解決不可能な問題があり、神をそこに受け止めてこそ初めて進んでいける世界がある。生きるとか死ぬとか愛とか試練とか…。
なぜ神を受け入れる必要があるのか…それは人生の目的を知るのには人間の作者に聞かなければわからない。では人生の目的とは何か?子供ラジオ相談で…
仕事?成果?幸せ?→マタイ22:36-40―神と人を愛する事が目的!
【適用】あなたの環境は最高ではないかもしれない。しかし最高を求める祈りよりも、その環境の中で神と人を愛する力を得て進むことが大切なのだ。
 
V.実を結ばないのを嘆くのをやめて、実を結ぶ神の計画を信じなさい
この無花果は3年実がつかないために「切り倒す」(7)という結論を出すところだったが、ここに別の考えを持つ人がいた!→番人(8)この「番人」(文語訳「園丁」=庭師。この庭師とは無花果や人間のことを一番よく知っているキリスト。この方には木を切り倒すことなど頭にないのだ!あくまで実を結ぶ計画なのだ。「木の回りを掘って肥やしをやってもう一年待ってみましょう」(8)
【適用】私達も同じ事を繰り返すのではなく、「実を結ぶ」神の計画を信じいろいろと「工夫」をして取り組んでみる事が大切である。しかし大事なことは
実を結ぶことばかりを焦って嘆いたり苛立つのではなく、最高の目的―神と人を愛するという目的を少しでも果たすことを目的に生きていこう。そのうち実は結ぶ!
【結び】ペテロ徹夜の漁で一匹の魚もなし。キリストに「もう一度網を打ってみなさい」と言われて従ったところ→大漁!
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2019年09月16日

2019年9月15日礼拝メッセージ ヨハネ6:15−21 「恐れることはない」音声で聴く。

ヨハネ6:15−21      「恐れることはない」       19/9.15
【序】人生は順風の時だけでなく、逆風や嵐の時もある。その時は経験した事がないような不安、孤独、恐れに囲まれるものである。今日出てくる弟子たちも大きな嵐に直面して恐れに囲まれたが、そんな弟子たちや私たちの人生の嵐に「恐れることはない」と語られ平安を得た。この記事が語る励ましを伝えたい。

T.人生の嵐は神の深い愛から出ている
私達は人生の嵐に会うと、他人や新興宗教から「それは祟りだ、因果応報だ、心掛けが悪いからだ」とか言われて、それでなくても苦しいのに、更に悩まされる事がある。しかし聖書は違うのだ。「神は愛する者を試みられる」(へブル12:6)とある。つまり神は、この試練を通してこの人は成長してくれるであろうと思う人に試練を与えるのである。試練は神があなたを愛している印なのである。当座はそう思えないが神の計り知れないご計画の中にあるのだ。
【証】ラジオ牧師の榊原寛師の小学4年生の息子が事故で亡くなった。母親は大変な悲しみで夫にこう言った「もう私は今後微笑む事はないかもしれません」しかしその20年後、小学生の息子を事故で亡くした婦人が牧師夫人を訪ねてきた。面談の後婦人が言った「私も奥様のように微笑む時が来ますよね」と。慰めがあるとしたら同じような経験を経た人でなければできないだろう。榊原ご夫妻にとって息子を失うのは大変な悲しみだっただろうが、神は同じような経験を経た人を慰め人とされるのである。

U.人生の嵐を静める力のある方が共に歩んでくださる
キリストが「恐れることはない」(20)と言われるのは、人間がそう言うのと違う。人間がそう言っても大した力にはならないが、「嵐」を支配されるキリストがそう言って共に歩んでくださるのだからこれ以上安心できることはない。他の聖書に似た記事があり、その時は風に命じて嵐を静められたが今回は違う→マルコ6:51「そして舟に乗り込まれると風がやんだ」動揺する弟子たちの舟に乗り込まれた時、嵐はやんだのだ。別の言い方でいえば、嵐の中でキリストを心の中に受け入れた時嵐に支配されない平安な生き方ができるのだ。

V.人生の嵐も終わりの時がある
励まされるのは次の御言葉である→「舟はほどなく目的の地に着いた」(21)
私たちは人生の嵐に直面すると、この嵐はいつまで続くのかと不安になるが、
「ほどなく」目的地に着くのだ。いかなる試練も終わる時があるのだ。
【証】米国で大成功していた日本人T世の男性が第二次世界大戦で西海岸にいた日本人は強制的にアリゾナ州の収容所に連行されたが、その人の家、土地、事業全部を取り上げられた。それまでも彼は神を形だけで信じていたが、どちらかというと神+金というやり方で、神だけじゃだめ、人間、金がなければという考えだった。しかしその考えでこの結果。全てを失って自分の無力を思い知らされた。しかも収容所で病気にも罹り非常に悩んだ。そんな中、その収容所で心底神を愛し隣人のために奉仕する真実なクリスチャンに出会った、そこで不満を言う自分とは違って喜びつつ生きるその姿に心を刺され、目が開かれ、生ける神を見出し、神を信じて生きる生活の何たるかを知ったのだった。そして聖書に従って生きる生活に導かれた。心が入れ変わった数年後、収容所から出ることができたのである。しかも財産も全て戻ってきたのである。「キリストを受け入れた後、ほどなく嵐はおさまった」のである。
伝道者の書3:1「天の下では何事にも定まった時期があり全ての営みには時がある」何事にも時があることを覚えて焦らず進んでいこうではないか!
posted by kbcc at 10:17 | TrackBack(0) | 礼拝