2019年10月27日

2019年10月27日礼拝メッセージ 「あなたの名を呼ぶ神」音声で聴く。


イザヤ43:1−4       「あなたの名を呼ぶ神」      19/10.27
【序】私はクリスチャンになるまで毎年正月に家族では三つの神社に初詣でに通った。クリスチャンになってから、日本の神々と聖書の教える神とでは全く違うことが分かってきた。日本の神々は、人間が神を呼ぶしかないし、しかも果たして石や偶像や死んだ人間や動物まで拝むのだから答えてくれるとも思えない。それに対して聖書の神は、人間を呼ばれる神だ。→「わたしはあなたの名を呼んだ」(1)とある。なぜ呼ばれるのか伝えたい。
T.あなたを呼ぶ神の存在について
求道者からよく聞く質問に「聖書は良い話だが、どうしても先に進まない「神は果たしておられるのか?」がある→素晴らしい作品があるなら作者がそこにいなくてもその存在は疑いようがない。同じように神がおられるのはその作品である大宇宙と人間からわかる。→「あなたを造りだした方、主!」(1)人間の目の不思議さ…
U.神があなたの名を呼ぶ三つの理由
1.あなたを知っているから呼んでいる
「知っている」とは、あなたの全てを知っているとの意味。どんな境遇でどんな悩み悲しみがあるかも全てを知っている。しかもあなたが神を求める遙か前からあなたのことを知っている。
【例】神の子キリストがエリコという町に入られた時、群衆の中に無花果桑の木に登って見下ろしていた男がいた。ザアカイである。彼は金持ちになったが思ったほど満足はなく誰も自分を名前で呼ばず罪人と呼ばれる虚しさと孤独にあった。その彼にキリストは一度も会った事がないのに声を掛ける「ザアカイよ」と。やがてザアカイの人生は一変する!
2.あなたを本当に愛しているから呼んでいる
   私達人間は相手を愛している時は名前を愛を込めて呼べるが、仲違いすると、途端に名前が呼べなくなる。【例】人類の最初から。アダムとエバの「あの女が…」
しかし神は私たちがどんなに反抗的で御心に反していても名前を呼んで愛し、回復させてくださる。「わたしの目にはあなたは高価で尊い」(4)と呼び掛けて下さる。
3.あなたでなければ出来ない使命があるから呼んでいる
  「ヤコブよ…イスラエルよ」ヤコブは神を知るまでの生来の自分、野心家であり策略家。イスラエルは神によって変えられ用いられた自分。聖書を読んでわかることは、どんな人にも使命というものがあるという事だ。 
【証】和歌山県の牧師から聞いた証…その教会に知恵遅れの男性がいた。どれだけキリスト教のことを理解していたかわからないが礼拝で1テンポも2テンポも遅れながら歌っていた。ある時彼が下働きしている漁船嵐に遭い、皆で入ってくる水を必死になってかきだした。やっと夜が明けた頃嵐はやみ船が港に戻ってくることができた。ところがあの知恵遅れの男性がいない。海に落ちたか、皆で探してみると彼は船底にへばりついて死んでいた。よく見ると彼は船底の破れた大きな穴に自分の足を突っ込んで水の侵入を防いでそのまま死んでいったのだ。船長が懐には讃美歌があったと教会に持参した。
【結び】シュバイツァ―博士は訪れてくる日本人に言った「勤勉な日本人の皆さん、人生で二つの仕事をもって下さい。一つは生活の糧としての仕事、もう一つの仕事は天職で、神から頂いた務めです」→あなたの使命は?
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2019年10月21日

2019年10月20日礼拝メッセージ「因果応報思想からの解放」音声で聴く。


ヨハネ9:1-7       「因果応報思想からの解放」       19/10.20
【序】日本には色々な思想があるが、その中でも不幸をもたらす思想という枠があれば、その中の一番上にあげられるのが今日お話ししたい思想―「因果応報」である。禍に会うと、やれ祟りだ、因縁だ、はたまた心掛けが悪い、と言われて大いに傷つき悩む。取り戻せない過去に縛り付けるのでは解決がない。キリストは全く違うことを教えられた。解放のメッセージ!

T.因果応報思想は間違いである
 「この人が盲目に生まれついたのは誰が罪を犯したからですか?」(1,2)
生まれつきの盲人について尋ねた弟子達の言葉は因果応報思想である。
【例】関西盲人宣教会という視覚障害の方々への伝道団体に招かれてメッセージをした事がある。参加者全員目が見えないという集会は初めてで分科会にも出た。そこで聞いた証「私は成人になってから視力を失った。毎朝今日は目が開くかもかもしれないと3年間期待し続けた。受け入れるのに時間がかかった。それも辛かったが道を歩いていると知らない布教師に声をかけられるのが更に辛かった「何でも原因があるのです。肺結核とライ病は天刑病なんです。これは神が与えた罰なのです。即ち肺病はハイと従わないから肺病になる。顔に痣のある人は前世で夫の顔を踏みつけたから。盲人も親の因果が子に移った」と。当人も身に覚えのない前世を持ち出して祟りだとか、因縁だとか決めつけられて堪らない思いをされたそうだ。
今も昔も肉体的障害や不幸を因果応報に縛り付けて、如何に多くの人が間違った悲しみを担わされているか数知れない。それに対して主イエスは「この人が罪を犯したのでもなく両親でもありません」と明確に宣言された。

U.禍もまた神の恵みの体験に導かれる
キリストの言葉→「神の業がこの人に現れるためです」(3)
この意味=病や弱さもまた神を信じて生きることの素晴らしさが表れる為である。この盲人は今まで視力がないというだけの理由で名前も付けられず、物乞いの人生を強いられ、差別的な言葉しか聞いてこなかったのである。しかし生まれて初めて愛と希望の言葉を聞いたのである。大変な喜びであっただろう。「命は大切だ、命を大切に、そんなこと何千回、何万回言われるより、あなたが大切だって誰かが本気で言ってくれたら、それだけで生きていける」(日本公共広告機構) 正にその言葉を聞いたのだ。
【証】新垣勉さんの証…(次頁参照)

V.確かな道は御言葉に従う人生にある
主は泥を作って盲人の瞼に塗り「シロアムの池に行って目を洗いなさい」(7)と言われた。直ぐに癒しもできたが、そうされなかった。それは彼に今後、確かに道は御言葉を信じ従うことにあることを体験させるためであった。→シロアムの池まで約800bの距離を歩きながら「イエスの言葉は本当だろうか?もし目が開かなかったら?でもあのような愛と希望の言葉を語って下さるあの方が嘘をつかれる筈はない」 やがてシロアムで目を洗って開眼!
信仰は不安や迷いが一切無い生活ではない。そうあってもいいのである。ただ、
その中で御言葉を掴んでいく、そんな中で恵みの体験がなされていくのである。
盲目のテノール歌手新垣勉さんの証
沖縄で在日メキシコ系アメリカ人の父と日本人との間に生まれた。出生後まもなく助産師に目に家畜を洗う劇薬を点眼される不慮の過失で全盲となる。更に1歳のとき両親が離婚。父親は帰国。母親は再婚したために、母方の祖母に育てられる。その際、祖母を母親と、実の母親を姉と言い聞かされながら育てられた。中学2年の時、祖母が脳梗塞で死去。天涯孤独となる。そんな中、ある布教師が「あんたは悪い星の下に生まれた。先祖の因縁だ。諦めるしかない。恨むなら先祖を恨みなさい」と言われ、自分の境遇に絶望し井戸へ飛び込み自殺を図ろうとした。しかし死にきれず意味もなく歩いていた時、教会から美しい讃美歌が聞こえてきた。元々歌が大好きであったこともあり、導かれるままに飛び込んだのが首里バプテスト教会だった。牧師は真剣に話を聞き涙を流して祈ってくれた。そして、ヨハネ9章を開いて、あらゆる障害は罪のせいではなく、却って神の素晴らしい御業が現れる機会になるのだ」と伝えてくれた。新垣さんはキリストを受け入れ希望の人生が始まった。
しかし両親に捨てられた傷は消えることはなかったが、一大転機が訪れる。もともと天性の歌声を持っている新垣さんが西南学院神学部の4年生の時、神戸在住の世界的ボイストレーナーのバランドーニ師のオーディションを受ける機会が与えられ、そこで言われた。「新垣さん、あなたの声は日本人離れしたラテン的な響きがある。これは神様からのプレゼント。お父さんに感謝しないといけないね」と称賛された。生まれて初めて憎しみが心の中で音を立てて崩れた瞬間だった。
やがて少しずつ音楽の道が開かれ、NHK大ホールで「さとうきび畑」を熱唱し、クラシックとしては異例の20万枚のCDを売り上げるヒットとなった。
現在、各地でコンサート活動を行っている。澄んだ声と逆境を乗り越えた半生が共感を呼んでいる。ユーモアのある方で「私は体が楽器みたいなものです。なにせ名前が『アラガッキ』というくらいですから。」など。ユーモアに富んだ軽妙な語り口で人々の共感を呼んでいる。
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2019年10月14日

2019年10月13日礼拝メッセージ ヨハネ8:1−12「わたしもあなたを罪に定めない」   


【序】世には色んなアンケートがあるもので「ノンクリスチャンによるキリストアンケート」で「キリストに最も惹かれるところはヨハネ8章のキリストだ。素晴らしい、の一言に尽きる」これノンクリスチャンのアンケート??確かに主の愛と力、賢さが際立っているところだ。伝えたい。

T.弱者を守るキリスト
早朝、主イエスが人々に教えを施されていた時、律法学者達が「姦淫の場で捕らえられた女」を引っ張ってきて「モーセはこういう女を石打の刑にするよう命じているが、あなたはどうするか!」と詰め寄った。この種の罪は相手あってのことであり、関係した男も同罪であることを旧約聖書は語る(申命記22:22)。しかし聖書を知っている筈の律法学者達は弱い立場の女だけを連れて告発をしに来たのだ。ここに現代に始まったのではない昔からあった「弱い者いじめ」の原点がある。死の恐れと恥ずかしさで一杯のこの女性の前で賢くしかも批判を許さない言葉が発せられる。「あなたがたのうちで罪のない者が…石を投げなさい」(7)→人々は年長者から石を落として立ち去った(9)
【適用】神戸市須磨の小学校で20代の教師を30,40代の教師が女性教師も加わっていじめが発覚。罵倒し、蹴りを入れ、激辛カレーを羽交い絞めにして食べさせている。車のボンネットの上に載ってへこませる。→いじめをする者への警告―詩篇12:5

U.罪を赦すキリスト
人々が年長者たちから石を落として去り、残ったのはこの女性とキリストのみ。女性は遂にキリストに裁かれる時が来たと思った事だろう。しかし怯える女性の耳に聞こえたのは想像を超えた言葉だった。「わたしもあなたを罪に定めない」(11)罪に定める権威と資格を持つキリストから赦しの言葉が発せられたのだ。我々は自分に非があっても相手を非難し易い者だが主は違った。
【例証】インドの宣教師だった英国人エミ・カーマイケルの本に「ある青年が神の元に来て罪を告白した『神様、またまたあの罪を犯してしまいました』すると神は言われた「あの罪とは何のことですか?私はあなたの罪を覚えていません』と。→へブル8:12

V.罪の裁きを担うキリスト
しかしキリストが「罪に定めない」と言われた時、石打の刑である姦淫の罪を大目に見たという事か?否!これはこの女の罪の裁きは下されるべきなのだが、それを主イエスはこの女にではなく、御自分が身代わりに引き受けるという意味なのだ。つまり、主は十字架に掛かってこの女の罪を引き受けて下さる約束の言葉なのである。何という愛、何という力!主はこの女に赦しと人生の再生を与えて下さったである!同様にあなたと私の罪の裁きも身代わりに受けてくださったのである。
【適用】新聖歌483「両手いっぱいの愛」…それがキリストの十字架が分かった人の歌!
posted by kbcc at 09:09 | TrackBack(0) | 礼拝