2019年11月24日

2019年11月24日礼拝メッセージ 「あなたは自分の価値をどこで見出しますか」音声で聴く。


ルカ19:1−10   「あなたは自分の価値をどこで見出しますか」   11.6.19
【序】TV番組に「なんでも鑑定団」がある。お宝を鑑定士に評価してもらう単純な番組だが人気番組だ。10万円で買った器が千万円と言われ大喜び。逆に百万円出して買ったのに偽物で5千円、聴衆の笑いを誘う。結局、価値は誰が作者であるかが決定的!…今日出てくる人物は自分の価値を間違ったもので見出そうと頑張った人である。しかしやがてキリストに出会い、真の価値を見出して喜びを得た人の話である。

T.富と地位こそ幸福のカギと考えたザアカイ
ザアカイ=「清い」の意味ー親の願いが分かる。しかし彼は「清さ」だけでは生きれないと目をつぶり、掴んではいけない金も掴み、乗ってはいけない話にも乗り、人の涙も無視して出世街道を走った→「町の税務署長で金持ち」(2)ここまでなら成功談だが、話は違った!

U.成功者になったのに幸福ではなかったザアカイ
@思ったほど満足感がない
 彼は全く地位や富に縁が無く愛の極みのような方に会いたいと思った。もし地位と富で満足していたら、キリストに会って見たいという願いはなかった筈。
【例】成功者の虚しさ!
〇世界的スターの告白…(次頁参照)
〇豊臣秀吉(一代で最高権力を握った武士)「「露と落ち露と消えにし我が身かな。浪速のことも夢のまた夢」
なぜ富と成功を得ても満足できないか?それには理由がある→「神は人の心に永遠を与えられた」(伝送者の書3:11)つまり神に造られた人間はその心に永遠なる神を受け入れて満足できるのにこの世に一時的なものでは満足できないように造られているからだ。
A人間としての寂しさー名前を呼んでもらえない
「罪人」(7)→愛されてないということ!人々は仕事上自分の所に来るが、人間として愛されてない。価値を認められてない寂しさ!
【適用】サラ川柳「退職金もらった瞬間妻ドローン」「仲いいね、いいえ、夫は杖替わり」「デイサービスお迎えですは止めてくれ」「ご主人は?お盆に帰ると詐欺に言い」「お揃いの茶碗にされる俺と猫」
  ※孤独は口下手とか付き合いが下手でなるのではなく、終生頼りになる存在がいない故!
B罪の自覚
「私がだまし取ったものは…四倍にして返します」(8)これは素晴らしい自覚なのだ。
罪を犯したことは悪だが、その自覚があるかないかが大切だ。
【例】教会学校教師が生徒に尋ねた「君は死んだら天国に行けるかな?地獄かな?」「はい。良いことをした人は天国に行き、悪いことをした人は地獄だと思います。僕はどちらもしたので中国だと思います」???
実はそうではない。善い行いをした人は天国に行き悪い行いをした人が地獄に行くのではない。聖書の罪とは行い以前に、神との関係の言葉。即ち神に造られたのに神との関係を持たず神を信じない事が罪なのだ。ザアカイはこの自覚が生まれて悔い改めたのだ。

V.ザアカイを救われるキリスト
キリストは彼と会う以前に彼の真実の姿を知っておられたが、名前を呼び彼をあるがまま
で受け入れて下さった。ザアカイは生まれて初めて正味の自分が愛される喜びを経験した。
【適用】あなたはどこで自分の価値を見出しておられるだろうか?職場か?人によってか?あなたのために身代わりの裁きを受けて下さるほど愛してくださっているキリストを見出してもらいたい。

世界的スターの告白
(「小森のおばちゃま」と呼ばれ、映画評論家として活躍した小森和子氏のインタビュー)
「仕事柄、世界的な大スターに会う機会が多いんだけど、実際に会ってみると意外なのね。
 名声や富を求めて、がむしゃらに努力して、それを手に入れたはずなのに、幸せじゃない人が結構いるの。そんなスターたちを見てると、幸福はつくづく名声や富なんじゃないんだなあって思うのね」
posted by kbcc at 21:36 | TrackBack(0) | 礼拝

2019年11月19日

2019年11月17日礼拝メッセージ 「その愛、無駄と言われた時」音声で聴く。


ヨハネ12:1−8     「その愛、無駄と言われた時」     19/11.17
【序】新任牧師が初めて結婚式の司式をする事になった。先輩牧師から言葉に詰まった時は「慌てず一番好きな御言葉を語れば後は出てくるから」とアドバイスをもらった。安心して臨んだがやはり言葉に詰まって慌てた。そこで先輩牧師の助言を思いだし「そうだ一番好きな御言葉だった…父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか分からずにいるからです」これは笑えるミスだが、ミスどころか非難と変わってしまった話がでてくる。一生懸命愛の業に励んだのに評価されず非難されるケース。奉仕や善行など愛の業を行う時の心構えを学びたい。

T.愛の業は誰が評価するのか
 マリヤがナルドの香油(300日分の労賃-300万円相当)(5)を主に献げた愛の業に対してユダがもっと貧し人のために遣い道があり「無駄だ」(マタイ26:8)とさえ非難した。しかし本当のところは会計のお金を盗んでおり、あとで自分に預けてくれれば、使い込みの穴埋めにできるという偽善的な非難であった。しかし主はマリヤの愛の業を暖かく高く評価された(7)
 【適用】自分の愛の業は不十分かもしれないし非難されるかもしれない。しかしあなたの愛の業を神が最終的に高く評価して下さる。最終的に評価される方は人ではなく神である。神が評価して下さるならそれで十分。
 「神は…聖徒たちに示したあの愛をお忘れにならない」(ヘブル6:10)

U.愛の業の動機は何か
 一般的に、愛の業の動機は誰かが困っているから助けようとする人間愛が動機の場合が多いが、マリヤの場合は違った。
キリストはマリヤの行為を「私の葬りの日のために取っておいてくれた」(7)
 と言われた。→一般的な葬りなら没薬だが、高価なナルド香油の注ぎは、主の十字架の死が人間の罪からの救いのためである事を知っての感謝から生まれた。マリヤの愛の業はこの十字架の恵に対する深い感謝から生まれた
 【適用】人間愛だけの動機で愛の業をするのは、喜ばれる間は良いが、感謝されないと続かなくなる。奉仕を含めた愛の業は、神への感謝、キリストによる十字架の救いへの感謝から生まれるべきである。ところであなたは十字架に対する感謝を失っていないだろうか?

V.愛の業の原動力はどこから来るのか
 マリヤの愛の業は、主の十字架の意味を深く知っていた故の行為であったが、彼女のこの洞察は十二弟子達でさえ主の十字架の意味を悟り得なかった事を思うと、その洞察の深さに驚く。その洞察は天性のものではなく、主の膝元に座って主の御言葉を聞く態度から生まれた(ルカ10:39)
 【適用】日々に御言葉に養われよう。御言葉を読むのと御言葉に聞く事の違いを知ろう→聞く姿勢は神への従順を生み出す。 
posted by kbcc at 23:17 | TrackBack(0) | 礼拝

2019年11月12日

2019年11月10日礼拝メッセージ 「延命に勝るもの」音声で聴く。


ヨハネ11:17−44      「延命に勝るもの」       19/11.10 
【序】人間が最も恐れているのは「死」だろう。死は仕事も計画も人間関係も全てキャンセルさせる。だから健康に気を遣うし延命も計る。テレビでもいかに健康サプリや薬の宣伝が多い事か。しかし思うに薬の中で最も良い薬は聖書だろう。何しろ旧薬?新薬?という位だから…。しかし延命できたとしても数年の差だ。しかしここに「延命」に勝るニュースがある。「永遠の命」への道がキリストによって開かれた。これを自分のものにできるビッグニュースが今日のラザロの甦りの箇所にある。この箇所が伝える三つのメッセージをえたい。

T.キリストの愛―人の悲しみに寄り添う心
 「イエスは涙を流された」(35)
全聖書中最も短い節。ここに「愛する者を失った者」への深い愛がある。キリストはポンポンと無感覚で奇跡を示されたのではない。愛する者を失った家族への深い同情心がある。キリストが「涙を流された」のは、その涙である。キリストというお方は人の悲しみに深く共感されるお方。私達には奇跡はできないが、この寄り添う心がある時不思議な癒しがなされる。
【証】85年日航ジャンボジェット機墜落事故は500人以上の犠牲者が出た事故だったが、その中に主人を亡くされた婦人がいたが、教会で友人に言われた心ない言葉「この事故は教会から離れている息子さんを取り戻すための事故ではないの?」で反応性の欝になられた…そんな中で近所の八百屋のおじさんがやってきて言った。「奥さん、大変な事になりましたね…食事の準備もする気にならないでしょう。買い物する暇もないでしょう。私これだけもってきました」と涙と共に籠一杯の新鮮な野菜。一番慰められたという。

U.キリストの力―死を打ち破る力
「私は甦りです。命です。私を信じる者は死んでも生きるのです」(25)
主がこの言葉を語られたのはラザロの死後四日目で、死臭が漂い始める頃(39)。単なる励ましでは済まされない葬儀の最中。その中で主はラザロを死から甦らされた。(43,44) 死はやはり信仰者といえども最大の不安。しかし信仰の強さで復活がもたらされるのではない。ただキリストの御力が復活と永遠に後をもたらすのである。人に必要なのはキリストを救い主と信じる信仰のみ!
【適用】私たちの人生は年を取るにつれて段々寂しく侘びしくなるのではない。30代よりも50代,50代よりも80代がより儚く希望が薄れていくのではない。反対である!キリストに救われた人生は永遠の復活に向かっていく人生なのである!→ヨハネ6:39,40!

V.キリストの教育ー御言葉の適用
「あなたが信じるなら神の栄光を見ると、私は言ったではないか」(40)
マルタは頭では復活信仰を信じていたが、葬儀の現場でキリストが弟ラザロを甦らされるとの御言葉の適用ができなかった(27,39)。理由は世の常識や経験に支配されていたからである。信仰は現実の生活で適用されるべきなのである。 
posted by kbcc at 18:14 | TrackBack(0) | 礼拝