2017年03月28日

2017年3月26日礼拝メッセージ「心の叫びが聞こえますか」マルコ10:46-52 音声で聴く。

マルコ10:46−52      「心の叫びが聞こえますか」     17.3.26

【序】皆さんは親から良い名を付けてもらっている。司会の○○さんもそう。しかし今日出てくる人物は名前を付けてもらっていない。それだけでどんな苦悩の人生か想像できる。しかしそんな彼がキリストに出会い救われる。


T.闇の人生にも救いの出会いがある

彼の事を「テマイの子バルテマイ」(46)と紹介されているが、バルテマイとは名前ではない。バル=子→即ちテマイさんの子。盲人に生まれた彼は呪われた存在として、親から固有の名前も付けてもらえず物乞いしか道がなかった。彼の人生は闇で閉ざされ夢も希望なかった。しかし彼に一つの噂が入ってきた。同僚の盲人の話では、キリストというお方は盲人の目を開けられただけではなく「盲目に生まれたのは親の罪の所為でも本人の所為でもない、神の業が現れるため」(ヨハネ9:3)と!生きる力をと希望を与える言葉。更に死人は甦り、嵐を静めた噂…。彼の前をイエスが通る。心は弾む。乞食をするしか道がなかった彼に大きな出会いが備えられていた。 

【適用】どんな人も人生のどこかで素晴らしい出会いを経験するチャンスがある。あなたが教会に来られて聖書の話を聞いているという事実があなたの創造者である神との出会いなのだ!


U.心の叫びを聞き分けるお方がいる

バルテマイは叫んだ。「私を憐れんで下さい!」(47)

この叫びの背後にあるものは※自分なんか生きる価値がない。自分なんか愛される資格がないという自己存在の否定、自己評価の低さから来る叫び。なぜ自分の責任でもないのに名前もない人生を生きねばならないのか。これが彼の腹の底にある叫び。星野富弘の詩に「私には二つの曲が流れている、人と接している時の楽しそうな曲と一人の時の暗い曲」

腹の底を面白く歌う川柳がある→「馬が合い結婚すれば牛になり」「値段見ず俺に似合うと言ってくれ」「今に見ろ遺言書見て驚くな」川柳なら笑い話で終わるが現実は悲惨→教会で花の日のお見舞いに富田林病院に皆で行った時…一人のおじいさんに花を子供が渡そうとして、看護師にとどめられた。反応がないからという、しかし花をもらったおじいさん病室中割れんばかりの大声で泣き出された。心の中は看護師さんにもわからない。しかしキリストは腹の底にある叫びを聞き分ける方!


V.何が救われるための正しい信仰告白か

バルテマイはキリストに「ダビデの子」(47,48)と告白した。他の人は「ナザレのイエス」としか呼ばなかった。単にナザレ出身のイエスとの意味。「ダビデの子」とは「キリスト即ち救い主」である。この告白こそ救われる事の出来る正しい信仰告白!

【適用】あなたはキリストを何と呼ぶか?キリスト教教祖? 天才?→キリスト教の根本はイエス=キリスト(私の罪からの救い主)と信じる事である。バルテマイは皆に遮られる中で勇気をもってイエスにそう告白した。キリストはその告白を深く受け止め、救いを賜ったばかりか目の癒しも得たのだ。

【適用】ある人はイエスを信じたいと思っても、その思いをイエスに叫ばないで、心の中にしまったままではないか?主は答をご存じであるが、あなた自身が救いの願いをキリストに言い表わす事を求めておられる。


posted by kbcc at 16:50| 礼拝