2017年11月05日

2017年11月5日礼拝メッセージ「キリストが来られた目的」ルカ5章31、32節音声で聴く。

ルカ5:31、32     「キリストが来られた目的」        17.11.5

明治20年代に「文学界」という作家達のグループがあった。島崎藤村や国木田独歩…。何と文学界の90%が洗礼を受けた。凄い数字だ。しかしやがてそのほとんどが信仰から離れた。理由は今日の聖書箇所の意図を理解しなかったからだと言われる。私達も間違わないようにしたいものだ。


T.キリストは誰を招かれるのか

キリストは「わたしは正しい人を招くために来たのではなく罪人を招いて…」(32a)この言葉は人を分け隔てなく愛されるキリストの言葉とは思えない「正しい人」を排除するような言葉だ。いかなる意味か?これは神の救いを必要としない程の正しい人がいるという意味ではない。そんな人はいない。この「正しい人」というのは、自分は善人であると思い込んで、自分が救われねばならない罪人であるとは思わない自称義人の事である。そういう人々にはキリストの救いは無用であるという意味だ。でも全てが神の前に正しい人ならキリストが来られる必要はなかった。


U.「罪」とは何か

これも誤解が多いので説明しなければいけない言葉である。というのは「罪」と聞くと、ほとんどの人は殺人、盗み…刑法の罪を想像するからである。だから私はそんな意味で罪人ではないとも思うのである。

罪とは何か―原語で「ハマルティア」=「的外れ」。つまり人は創造者である神によって命が与えられ生かされているのだが、その的を外して神を認めず自力で生き

ようとする生き方、これが「罪」の本質。この罪は様々な実を結んでしまう。

@行為の罪―殺人、盗み、詐欺…A心の罪―憎しみ、妬み、高慢、情欲、貪欲…B言葉の罪―嘘、怒り、罵り、バカ呼ばわり。

聖書は心の鏡といわれるが、その鏡に照らされた時、他人ではない、自分が神の前に罪人と認めざるを得ないのではないか。しかしそれは幸い!救いを得るきっかけであるからだ。【証】聖歌大好きい婦人、礼拝も夫が聞くべきと思っていたが自分の姿を知らされ…


V.救いを得る為に必要なことは何か

 「わたしが来たのは…悔い改めさせるために来た」(32b)→悔い改める事である。

 この「悔い改め」という言葉も誤解が多い。→間違った解釈は「悪い行いを改めること」(国語辞典)。聖書の教えでは、「悪い行いを改める事」と「悔い改め」とは分けて教えている→ルカ3:3と同3:8「悔い改め」とは原語ではメタ(変える)ノイヤ(思い)=「思いを変える」こと。具体的に言えば以下の基本的理解が変えられる事である。神はいないとの思い→天地の創造者、唯一の神がおられる。キリストは天才的人間→神の御子。私は罪人ではない→私は救いを必要とする罪人。十字架はユダが裏切ったから→私の罪の身代わりであった、と思いを変える事。

この悔い改めができた時キリストの招きの有難さが分かり救いを得るのである。

【証】献金で罪の赦しが決まる免罪符を売る教会に対してキリスト信仰による救いを強調したマルチンルター…

posted by kbcc at 20:08| 礼拝