2018年02月25日

2018年2月25日礼拝説教「失望はあっても絶望はない」ヨハネ5章1-9節音声で聴く。

ヨハネ5:1−9 「失望はあっても絶望はない」 

【序】聖書によれば人間は神の作品(エペソ2:10)というのに、どうして劣等感に陥り、失望落胆し、生きる価値を見失うのか?それは自分に関する悪い情報に支配されているからだ。親が子に「あんたは生きる価値のない子」と言い続けたら子供はまともに育たないしかし今日お語りしたいのは失望落胆し易いに最も素晴らしい情報を語り、希望を実現して下さるキリストについてである。


T.失望のために生きる力をなくしていた

 エルサレム郊外にベテスダ(憐れみの家)と言われる池があった。多くの病人がその回りにいた。その池の水が揺れる時があり真っ先に入る者はどんな病でも癒されるという言伝えがあったからだ(4)。そこに希望をなくした男がいた三つの失望

38年も病の人生を生きねばならないという人生への失望

A環境への失望「池の水が揺れるとき真っ先に入った者だけが癒される」(4)結局みな自分の事しか考えてないのだという孤独感。

B自分なんて愛される価値がないという自分への失望

U.失望から立ち上がらせるキリスト

失望していた彼に声を掛け生きる力を与えて立ち上がらせたお方がいた→キリスト

1.キリストこそ最後まで愛して下さる真の友

この男は38年間も誰にも声を掛けられない、見離され独りぼっちの孤独の中に

いた。→愛されてないという川柳なら笑えるが「沸きました妻より優しい風呂の声」「壁ドンを妻にやったら平手打ち」孤独感ありありだが、孤独は一部の人だけか?孤独というのは自分は内気とか、付き合い下手だからという理由で孤独なのではない。人は最後まで頼りになる友を持っていないという理由で全ての人が孤独なのだ。両親も友人もお金も地位も最後まで頼りにならない→キリストこそ真の「友」!

2.病の癒しを実現して下さる方

病人に「よくなりたいか」は変な言葉である。しかしこの男は直りたいという願いを長い絶望のあまり失っていたという事である。それゆえ先ずキリストは彼に強い願いを喚起されたのである。キリストは病を癒す力あるお方であるがその前に人に癒しの願望を喚起される。聖書を見ると癒しには二種類ある。一つは病そのものの癒し。もう一つは病を超えた心に変えられる癒し―パウロの肉体のトゲの癒しやヘレンケラーに見られる病を超えた生き方。

【適用】「求めよ。そうすれば与えられます」(マタイ7:7)求める前から諦めることのないように!

3.不幸を人の所為にするのを止めなさい「私を入れてくれる人がいない。もう他の人が先に入っていく」(7)そうかも知れないが、それを数えている間は何も起こらない。この思いが自分でも嫌な寝床に縛り付けている。主は「そうだよな、この世はエゴイストだよ」とは言われなかった→「床を取って歩きなさい」(8)「何と無茶な!歩けないから寝てるのに」もう人の所為にするのは充分。新しい力で生きることを求めなさい。人待ち依存の人生と過去から解放される新しい人生が始まる

【証】レーナマリアさんの証…(別紙参照

レーナ・マリアさんの証

かつて長野県で冬季オリンピックが開催された時、スウェーデンから女性歌手が招

かれ善光寺で「アメージング・グレイス」を高らかに歌って感動を与えたのがレー

ナマリアさんだったが彼女を有名にしたのは、当時朝日放送の冠番組だった久米

宏氏の「ニュースステーション」に三度も取材されて来日したからであった。

彼女は生まれた時から両腕がなく、足も片方が半分の長さしかない障害者だった。

しかし自炊生活をしており料理もすれば車の運転もする自立した女性である。全く

ハンディを感じさせない。それで久米氏が尋ねた「僕なんか身体に障害がなくても、

しょっちゅう死にたいなんて考えるのに、レーナさんは大きな障害があっても、

どうしてそんなに明るいんですか?」すると彼女はにっこり笑って答えた。

「そうですね…一つにはキリスト教信仰があるからでしょう。…でも私このハンディが好きなんです」 久米さんが思わず驚きの顔を表した。

彼女は自らの証の中でこう語っている。


「どんなときにも神様は私を見捨てられないし、信じる者に前向きに生きる力を与えて下さいます。」と。

posted by kbcc at 11:47| 礼拝