2018年03月25日

2018年3月25日礼拝メッセージ「今安心なのに、信仰が必要か?」ルカ12章16-21節音声で聴く

ルカ12:16−21「今安心なのに信仰が必要か?」 

【序】こんな事を言われる時がある「信仰も必要かもしれませんが、今安心して暮らしているから、信仰は特に必要ないです」と。出席者の中にも「聖書の話を聞くのはためになるから好きだけど、でも信仰となると今はその必要がない」と考える方がいるのではそれで今日の聖書から「今安心であっても信仰が必要な理由」についてメッセージをしたい。


T.事が上手く行っている時だけの安心では安心できないから

キリストが話された譬え話に登場する金持ちは「安心している」(19)

しかしこの男の安心は、物がある、金があるという事での安心である。言葉を代えて言えば、物事がうまく行っている時にもたらされる安心である。だが、果たしてこの安心は大丈夫か? 物事がうまく行かなくなる時が必ず来るものだが、その時どうなのか?忽ち安心は吹っ飛ぶのではないか?家庭の心配事が生じた、仕事で行き詰まった、健康に不安が募る、人間関係がこじれた…そうなるとこの種の安心は頼りにならない。

【証】生き甲斐は仕事、支えは健康と家族というYさんが心筋梗塞で倒れる試練…「病気になった事は辛いことでしたが健康な時には得られなかった人生の支えと安らぎを聖書に中に見出して私は本当に幸せです」と。


U.元々人間は神に造られた存在で造り主を敬うのは当然だから

聖書によれば、あなたという存在は神によって造られた存在である。それ故今安心な生活であれ、不安な日々であれ関係なく、神を信じ従うことは、当然ななのだ。そういうと信教の自由の時代に排他的だと思うだろうが、命の創造については神が強く主張される→イザヤ44:24。排他的というが、子供の父、母が「私が父だ、母だ」というのは排他的か?!当然だろう。命の創造者があなたに「私があなたの創造者だ」というのは当然なのだ。だから子供が親を敬うのが当然なのだ。しかし困った事に日本では「困った時の神頼み」ある。もし子供が親を敬うのに「病気になったのでこれから敬います」と言えば変な話である。子どもが親を敬うのは美しいことであって「病気にならなくても困ったがなくても当然なことであるそれと同じようにあなたの造り主である神を敬うのは造られた者として自然で美しい事なのだ。アウグスチヌス「神よ、あなたは人を造り給いました。それ故人はあなたに帰るまでは真の平安を得る事ができないのです」(『告白録』の冒頭句)


V.最大の危機に備える必要があるから

この男は物、金を用意し安心を誇っているが大きな備えを忘れていた。神がそれを指摘された「おまえの魂は今夜取り去られる。おまえが用意した物はいったい誰のものになるのか」」(20)と。死を示されたのだ。しかも聖書によれば死で終わりではなく、死後の裁きがあるのだ(へブル9:27) キリストは誰にもある死後の裁きのために十字架にかかりあなたの身代わりの裁きを受けてさった。この死を無駄にしないで戴きたい【証】1982年1月ワシントン国際空港を激しい吹雪の中を離陸した飛行機が離陸直後に氷結するポトマック河にかかる橋に激突墜落した。78人が死亡した痛ましい事故で、日本でも生々しい報道がされた事故…救助された娘さんが語った言葉に多くの人が感動した。氷の中にいる生存者を救おうとヘリから縄梯子が下され老紳士が昇ろうとして周りを見渡すと、若い娘さんが今にも凍えて水の中に沈もうとしていた。それを見た老紳士は「先にあなたが掴みなさい」娘さんがやっとの思いで縄梯子につかまり登って行き見下ろした時もう老紳士の姿はなかった。翌日多くの遺体の中に変わり果てた老紳士の姿があった。その老紳士はクリスチャンであった。老紳士は自分の命と引き換えに娘さんを救ったのである。後日彼女は教会に行き信仰を持ち熱心な信仰者になったそうだ。娘さんは老紳士の死を無駄にしなかったのだ。あなたもキリストの救いを無駄にしないで信じて頂きたい。


posted by kbcc at 16:19| 礼拝