2018年04月01日

2018年4月1日礼拝メッセージ「死に勝たせるもの」マタイ28章1-10節 音声で聴く。

【序】聖書に「最後の敵」という言葉が出てくるが、何でも最後に登場するのは大物である。それが「死」である。人生で最後のそして最強の敵。元気な時には威勢のよい人でも死が現実になると不安と恐れが襲う。しかしその死を打ち破る希望がキリストによって人類に与えられた。イースターメッセージを伝えたい

T.「最後の敵」に対する日本の歴史的有名人辞世の句

・在原業平(平安時代の歌人)「ついに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりけり」

・十返舎一九(江戸時代の作家)「今までは人のことだと思ったに俺が死ぬとはこいつたまらぬ」

良寛(江戸時代の禅僧)「今よりは何にか頼まん方もなし教えて給へ後の世の事」

西田幾多郎(明治時代の哲学者)「命かけて勉れど尚解きがたき問題持ちて我死にゆくか」

・夏目漱石(明治の文豪)「昨日は通夜、今日は葬式、明日するとすれば骨上げ 多忙である。しかし全ての努力をした後で考えると全ての努力が無益の努力である。死を生に変える努力でなければ全てが虚しい。こんな遺恨なことはない」

※死不安と悲しみに打たれ、漱石が言うに「死を生に変える努力でなければ全てが虚しい」嘆きが語られる。しかし最後の敵を打ち破るお方がおられる二つの希望を語りたい


T.復活の希望―「ここにはおられない。甦られました」(6)

 私は高3生で教会に行ったが復活ほど信じられないものはなかった。だからある人は「復活なんて話は弟子達の作り話ではないのか?」「一種の象徴的な文学表現ではないのか?」と考えてきた。しかしそれでは@弟子達の殉教の事実を到底説明できない。大嘘をついて死ぬ人はいないからだ。文学的表現なら説明すれば済むこと。Aこのメッセージが世界大に拡がり、世界最大の信徒数 B世界中の信仰者の臨終に見られる永遠の命への希望の確信を思えば、キリストの復活が作り話では到底不可能。この復活は事実なのだ。この事実の上に教会の葬儀で語られる死後の永遠の命の希望が確かなのだ!(ヨハネ11:25)


U.再出発の希望―「ガリラヤに行け。そこで会えるのです」(10)

キリストは死を打ち破る大勝利を示されたが、キリストの心にあったのは弟子達であった。彼らは主を裏切り見捨ててしまったという失意の中だった。3年半主と共に過ごし奇跡も素晴らしい教えも愛も教わってきた。しかしここ一番という時に信仰も愛も発揮できなかったのである。それどころか裏切ってしまった。そんな時「ガリラヤに行こう」(10)と主は言われる。ガリラヤはペテロ達がキリストと初めて会った場所。つまり主は過去の罪と失敗と傷を持つ彼らにもう一度人生の再出発のチャンスを提供される。ガリラヤは神にあっては誰でももう一度新しくやり直せる事を示す所!

【適用】あなた過去の罪や弱さや失敗で回復不可能と嘆いているなら、復活した主はあなたに言われる。「もう一度信仰と人生の回復がある」「わたしは会う」と。敗北や無力の経験は自分を嘆くために経験するのではなく、真の力の主を知るためにある。そもそも私達は裸で生まれて来たのだ。やれ名誉だ、財産だとくっつけて生きて何となくそれで間に合っていたけれど、人生の試練や挫折に対しては本当の力にはならなかった。だから命の原点である神に帰ろう。

【証】殺人をしてしまった息子の父(中学校教頭)の挫折と驚くべき回復…神は再生をもたらす神!次頁参照)






ある中学校教頭の証

その方は学内にも地域にも信頼され、自らも教師として誇りを持っていた教頭であったが、突然人生の大地震が起こる。それは息子が友達とプロレスごっこをしていた時に、その友達を誤って殺してしまったのだ。悪意はなかったものの、一人の若い人生を奪ってしまったわけで、この教頭は辞職せねばならず、地位も名誉も将来も全てを失い、他の町にひっそり転居して細々と絶望的な生活を始めた。ところがこの教頭であった方の友人の紹介で教会に導かれ、教会生活が始まった。やがてその教頭はキリストを救い主と受け入れ洗礼を受けた。でもここまでかと思っていた数年後、事情を知ったあるミッションスクールから教師として招かれたのだ。また息子も生徒として迎え入れられた。しかもその息子は後に留学し、母校の教師に迎えられたというのだ。神は人を絶望で終わることのない仁氏江再出発を用意されるのだ。



posted by kbcc at 18:28| 礼拝