2018年04月15日

2018年4月15日礼拝メッセージ「隣人を愛せよ」ルカ10章25-37節 音声で聴く。

ルカ10:25−37「隣人を愛せよ」 

【序】この話は「良きサマリヤ人」として語られ有名である。強盗に襲われた人を助けたサマリヤ人のように親切な行いをしようと教えられる。しかしこの話は「永遠の命を得るのにはどうしたらいいか」(25)という質問に対する答えとして譬話であるから、親切な人になれとだけ解釈してしまうと、聖書の中心メッセージー救いは行いによらず信仰によるーとは矛盾する内容になってしまう。それでは何か?


T.隣人とは誰か

「私の隣人とは誰の事ですか」(29)律法の専門家は尋ねた。この質問に対してキリストは「誰が…隣人となったか」(37)と答えられた。誰が隣人であるか、よりも、誰が隣人になったかの方が大切なのだ。つまり、隣人とは誰のことか論議するよりも、実際に隣人に対して深い関心をもってふさわしく愛を表し、助け、祈っていく事によって隣人になること神の御心なのだ


U.この譬え話の本当の意味は何か

この話は「親切にしましょう」という親切を奨める話以上の内容がある。当時ユダヤ人サマリヤ人あらゆる面で対立し、憎み、付き合いをしなかった。実際旅でサマリヤ地方を通らねばならない時でもサマリヤを迂回して旅していたである。しかしこの話では、傷ついたユダヤ人の旅人を助けたのはユダヤ人ではなく敵と思われていたサマリヤ人だった。ここに大切なキリストの意図がある。敵と思っていた人が最も素晴らしい隣人となった。神の目から見ると敵は存在しないのである。私達も広い心で良い隣人となることができる道をキリストは教えておられるのである。

「あなたがたは自分に関する限り全ての人と平和を保ちなさい」(ローマ12:18)


V隣人を愛はどこから来るか

しかし問題は上記のような愛をどうして得る事ができるか?作家の阿部光子さんは「隣人を愛する事はできるが隣のオヤジは憎い」と言った。理屈的には隣人を愛する事はできるが、現実の人間はそうはいかないと言うのである。その通りである。

律法の専門家自分は隣人への愛があると錯覚し、自分の行いで永遠の命を得られるとの高慢な思いがあった。人はキリストの十字架に示された自分の罪の姿と神の愛に触れなければ隣人を愛する力は出てこない事を知らねばならない

【証】韓国のキリスト教書で大きな絵を見た。よく見ると細かい字で描かれていた。濃淡、大小を使い分けながらの素晴らしい技術と表現力だった。特にキリストが世界中の子供たちを優しく祝福する絵が素晴らしかった。ヨハネ3:16世界の言葉で描かれていた作者は李さん…朝鮮戦争で家族が北と南に分断され妻や子供が北に連れ去られ共産軍を恨んでいた。ある時、李さんは教会でキリストの十字架の祈りを聞いた「父よ。彼らを赦し給へ。彼らは何をしているかわからないのです李さんは神から「あなた共産軍を恨んでいるがあなた自身こそ赦されねばならないではないか!?」が問われた。悔い改めた時、インスピレーションが与えられこの絵の力作が生まれた。

posted by kbcc at 19:47| 礼拝