2018年05月07日

2018年5月6日礼拝メッセージ「苛立ちで失うもの」ルカ10章38-42節 音声で聴く。


ルカ10:38−42       「苛立ちで失うもの」        18/5.6

【序】性格にも色々タイプがあるが、怒りにもタイプがある。雷のような爆発型もあればネチネチ型もある。又その時はそうでもなかったのに後で思い出して腹立つという遅刻型もある。或いは絶えず何かに怒っている24時間型もある。色々だが、共通しているのは根に「苛立ち」があるという事だ。この苛立ちは厄介なもので大切なことを失うのだ。今日はその苛立ちで大切なことを失った人から学びたい。


T.喜びを失ってしまう

マルタはキリストの訪問を「喜んで迎え」(38もてなしを始めたが、思うように行かず苛立ってしまった」(40)苛立ちは喜びを失うのだ

【適用】私達もこんな事はないか?自分のしたい事を思い通りにしている時は機嫌もいいが、思い通りに行かず、また協力者もいないと途端に不機嫌になる。その根本的理由は自分が良いことをしているという意識が強すぎるのだ。自分が、自分がという意識が強すぎて自然体で行っていない。だから思い通りに行かないと苛立ってしまうのだ。確かに世の中には苛立たせる人とか、苛立たせる事があるが、それで喜びを失ったらせっかく良いことをしていることが台無しになる。

U.相手も自分も見えなくする

マルタは40節で「妹が自分だけにもてなしをさせている」と語っているが、これは違う。マリヤもキリストの話し相手をするという事でもてなしているのだ。それが苛立つマルタには見えなくなっている。もてなしているのは自分だけだ、と。そう思うと腹が立つのだ。苛立ちは真に心の目を見えなくさせてしまうのだ。


V.どうしても必要な事を見失う

キリストは苛立つマルタに「あなたはいろいろなことを心配して気を遣っています。しかし、どうしても必要なことは僅かです、いや一つだけです」(4142と言われた。この「どうしても必要な一つのこと」とは何か?→それは「神を見上げること」。れは人生を生きる事でも、人間関係でも、仕事でも、奉仕でも、病でも問題でも必要な大切なことなのだ。神を見上げる事を忘れると問題に押しつぶされるからだ。

霊 

【証】東京に住む婦人の証…若い時にクリスチャンになったが38歳で末期がん。夫や姑から「何であんたみたいに熱心な人が癌になるのか」と心無い言葉を言われ彼女も悩んだ「なぜ私が?」と。悶々とする中、夢を見た。十字架にかかって婦人の罪のために死んで下さったイエス様の夢。その夢の中で自分がスッと十字架にかかっていく姿、そして声があった「お前の問題は全部私の手の中にある。私のする事に間違いはないから一切を私に任せなさい」朝目が覚めると不思議な平安が来て迷いや憤りは取れた。あと何カ月生きれるか分からないが、彼女は日記をつけた。誰にも見せなかった。病気で苦しいなんて書かなかった。夫や姑や家を飛び出した弟や子供たちの為の祈りのノートだった。徐々に体力もなくなっていき字もかすれだしたが書き続けた。しかし救いは起こらず死を迎えた。告別式の準備で牧師はそのノートを発見し、告別式で読んだ。すると家を飛び出した弟がワ―っと泣き出した、何かとケチをつけていた姑も夫も泣き出した。告別式が終わる頃弟が「姉はこんな苦しみの中にも私のために祈ってくれた。なんと私は神に背を向けた罪人であったか。赦して下さい。今日からクリスチャンになります」と。姑も「私も信じるわ」夫も「教会に行く」その婦人の召天を通して皆信仰を持ったのだ。神を見上げる事を忘れないようにしたい。

posted by kbcc at 20:45| 礼拝