2018年11月12日

2018年11月11日礼拝メッセージ 「汝自身を知れ」ルカ18章9−14節音声で聴く。

ルカ18:9−14        「汝自身を知れ」         18.11.11

【序】「汝自身を知れ」とはソクラテスの言葉であるが、自分を正しく知るのは難しい。日本は「お客様は神様です」という文化なので、自己評価の基準は人である。しかし人が相手では自己評価もコロコロ変わるし、人を恐れてノイローゼになる場合もある。大切なのは揺るがない神の御前の自己評価である。二人の人物から学びたい。

  

T.自分を義とする者は神に義とされない

パリサイ人は自分の善行を数え上げる(11,12)が、嘘ではないだろうが神に義とはされなかった(14) 聖歌に「数えてみよ主の恵」はあるが、「数えて見よ自分の善行」は無い。こんな祈りをする人は余りいないがよく読むと「心の中で祈った」(11)とある。するとこれは他人事ではない。私達も心の中で思うところがあるからだ。

【例】「神様。私は礼拝も休まず、祈りも欠かさず、奉仕もできるだけしてきました、つきましては○○の恵みをお願いします」…。あるいは逆に「これだけあなたのために頑張ってきたのに…何故にこんな禍が?」

自分の善行で神の恵を引き出そうとしたり、逆に自分の真面目さで報われないと文句が出てくる

私たちが神に聞かれる祈りの根拠は、私たちの善行ではなく、ただ神の恵みである→「行いによらず…信仰による」(エペソ2:8,9


U.神の前に謙虚に罪を認める者は神に義とされる

取税人は謙虚に「こんな罪人の私を憐れんでください」(13と神に祈った。

1.原罪を謙虚に認める

多くのまじめな日本人は「罪人」といわれる事に抵抗を覚える。∵「罪」=盗み、殺人をイメージする。これは刑法上の罪。しかし聖書の罪は神との関係概念。

罪とは=神によって造られた人間が神との関係を持たない事→原罪という。

つまり子供が自分を産んでくれた親と口を利かない、親を無視、認めないとい

う関係が壊れた状態は最大の悲しみであり罪であろう。

【証】新島襄が禁書であった聖書を初めて読んだ時の回心…最大の罪は真の神を認めない事を知った。

2.日常の罪(言葉、行い)を言い訳無しに認める。

この取税人は一切言い訳をしていない。私たちは言い訳しがちである。エデンの園のアダムもエバも言い訳をした。(「自分も悪いかも知れないが相手はもっと悪い」は言うべきではないのだ。


V.神の前に罪を認めるとは具体的にどういう事か

聖書を読む事→聖書を読んで恥ずかしく思う個所が自分の罪である。

 説教も「この話はあの人が聞くべき、これはあの人が反省すべき事」ではなく先ず自分に対して聞くのが神の言葉に対する姿勢である。

【証】賛美に引かれて教会に通い始めた婦人、お説教にも感動したが帰宅すると夫に皮肉を言う。「私はいいけどアンタこそ教会で懺悔すべきよ…」やがてある日自分の罪を示され夫への愚痴がぴたりと止んだ。すると夫が教会に行き救われた。

posted by kbcc at 14:17| 礼拝