2018年12月25日

2018年12月23日礼拝メッセージ 「神の御姿を捨てまで」ピリピ2章6-11節音声で聴く。

ピリピ2:6―11      「神の御姿を捨ててまで」       18.12.23

【序】小学生の時、先生が「世界には三大聖人がいる。釈迦と孔子とキリスだ」と言われ興味をもった。しかし後に分かった事は、先生が挙げた先の二人は聖人かもしれないが、最後のキリストは単なる聖人ではなかった。クリスマス礼拝の日、聖書の語るキリストについてメッセージしたい。


T.キリストの本質

「神のみ姿であるのに人となられた」(6,7

notキリストは三大聖人の一人で天才的な宗教家で遂に死後神として祀られた。

But神としての栄誉を捨てて人となられたたお方。それがキリスト!

キリストが神であると信じられる理由:

@驚くべき奇跡…嘘なら福音書自体が当時抹殺されていた筈 A言葉…キリスト自身の言葉(父と同一) B人格…愛の極み C世界的広がり

キリストは神に近い人間ではなく、人間となられた神である。そして大切なことはそのキリストはあなたと無関係な神ではないのだ。


U.キリストの目的

ではキリストが神の御姿を捨ててまで地上に来られた目的は何か?聖書にこうある→「(キリストは)…実に十字架の死にまでも従われた」(8)つまり「十字架の死は私たちの死後に受ける罪の身代わりであり、信じる者に罪の赦しを与える救いであったのだ。故に私たちと無関係な出来事ではなかったのである。聖書には「人間には一度死ぬことと死後に裁きがある事が定まっている」(へブル9:27)とあるが、私たちは個々に言葉、思い、行いにおいて罪を犯してきたものである。更には根源的には神に造られたのにその創造者である神を信ぜず従ってこなかったという原罪の罪がある。その罪を自分では解決できない。そしてキリストはそんな私達の罪の裁きを身代りに受けてくださった、それが十字架である。その為に地上に生まれてくださったのだ。そしてキリストを救い主と信じる者に無罪放免だ!

 【例証】私が子供の頃には「通い帳」があった。常連の客に店が通い帳を出し現金が無くても月末に支払う覚書。しかし我が家も父の事業の経営悪化でどんどん通い帳の記載が増えてくる。子供心に不安になったものだ。もしその支払いが帳消しになったら大感謝だが、キリストは死後の裁きを帳消しにしてくださる!


クリスマスはもう一つのメッセージをもっている。

V.キリストの模範

それはキリストのへりくだりは我々人間の模範だと語っている。その模範とは一言で言えば「自らを捨てる生き方(7,8)である。この模範に倣おうと勧めている。

【適用】あなたには「こだわり」があってこれだけはプライドがあって譲れない、捨てられないと思っていないか?獲得する事に終始してきた私たちは、喪失は辛い。しかしこの自らを捨てることには大いなる報いと栄誉がある→9節「それ故…」謙遜は栄光に繋がる。フランシスの「平和の祈り」…(次頁参照)

アッシジのフランシス

12世紀にイタリヤで富豪の商人の息子として生まれ、青年時代はぜいたくに遊び暮らし戦争にも参加するが、捕虜となり、大病を患う。その獄屋の中で回心。その後修道士になる。当時の修道士は修道院でずっと瞑想と祈りで過ごすのが慣例だったが、彼は伝道と癩者の世話に献身する。すると賛同者が集まり始め大きな集団となる。信仰の世界とは程遠い当時の教会で、警戒視した法王はフランシスを呼び寄せる。贅沢な宮殿の玉罪に座る法王が質問する。「フランシス、聖書でペテロは『金銀は私にはない』と言ったが、もうそんな事を言わなくてよい時代になったであろう」するとフランシスは応える「はい。ですがその後の聖句―『私に有るものを上げよう。キリストの名によって歩け』も言えなくなりました」法王は赤恥をかいた。

主よ、わたしを平和の器とならせてください。
  憎しみがあるところに愛を、
  争いがあるところに赦しを、
  分裂があるところに一致を、
  疑いのあるところに信仰を、
  誤りがあるところに真理を、
  絶望があるところに希望を、
  闇あるところに光を、
  悲しみあるところに喜びを。

ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。
  理解されるよりも理解する者に、
  愛されるよりも愛する者に。
  それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、
  許すことによって赦され、
  自分のからだをささげて死ぬことによって
  とこしえの命を得ることができるからです。


―フランシスの「平和の祈り」― 


posted by kbcc at 13:45| 礼拝