2019年02月03日

2019年2月3日礼拝メッセージ 「神が遠くに見える時」ルカ22の54から62 音声で聴く。

ルカ22:54−62神が遠くに見える時」  

【序】今日の説教題を「神が遠くに見える時」とした。実際は神様が遠くにおられることはないのであるが、遠くにおられるようにしか感じられない時があるものだ。

今日の聖書で出てくるペテロがそうだった。そこで@どうしてそう感じたのか。またAその時どんな結果があったのか。Bその回復の道、についてお語りしたい。


T.神が遠くに見え原因

 聖書は端的に語る「ペテロは遠く離れてついて行った」(54)

近くでもない、完全に離れてでもない中途半端な立ち位置。この立ち位置では神が遠くに見えてしまう。でもなぜ「近くに」行かないのか?→恐怖心神の御子さえ守られず逮捕されたのなら自分などもっと悪い事が起こるのでは…という恐れからだ。

【適用】あなたも何らかの問題で将来神が守ってくれなかったらと恐れているだろうか…しかしヨセフを思い出そう。17歳の時、兄達から虐待を受けた時、どこからも助けは無かった。エジプトでやっ仕事も得てこれで生活できるかと思った冤罪で牢獄にぶち込まれ時も助けは無かった。牢獄でもエジプト高官の夢を解き明かして救出を頼んだが、助けは来なかった神は見捨てられたのか?否!神の助けはもう少し後の最善の時に行われた。パロ王が夢を見牢獄から呼び出され、夢解きを行い、それが出世の始まりであった→「私は慌てて言いました。私はあなたの目の前から絶たれたのだと。しかしあなたは私の願いの声を聞かれました」(詩篇31:22)


U.中途半端な立ち位置がもたらしたものー苦い結果

三度キリストを「知らない」と否んでしまう大失態!立派な信仰告白をし、弟子の

リーダーのペテロなのに大失態ペテロ自身も思ってもみなかったキリストへの裏

切り。どこに原因があったのか?ルカ22:33「覚悟はできております!」

本来信仰は自分の力に依存するのではない、神への信頼が拠り所であるのだ。主の

執り成しの祈りの故に支えられている


V回復の道―キリストの愛の眼差し

ペテロが裁判の内庭で三度目にキリスト否んだとき「鶏が鳴いた」(60)。その時「主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは「外に出て激しく泣いた」(62)

彼が激しく泣いたとあるが、彼の涙の理由は何であろうか?

勿論キリストを三度も裏切ってしまった自分無様な姿に対する悔い故の涙であるだろう。しかしそれ以上涙の理由があるように思われるそんな裏切ってしまう不甲斐ない自分のような者の為に、信仰が無くならないようにひたすら祈り、立ち直ったら兄弟たちを励ましてやりなさいとまで言って下さるキリストの愛の大きさに泣いた涙であっただろう。この時キリストの御顔は平手打ちを受け、拳で殴られ、唾をかけられ流れていた。しかし主は知らず知らず堕落の坂を駆け下りつつあるペテロのために祈り続けるキリスト、キリストの眼差し!この愛を感じた時に人はそこまで愛される神の愛を近くに感じ、変わり得るのではないだろうか!

posted by kbcc at 13:05| 礼拝