2019年07月08日

2019年7月7日礼拝メッセージ 「キリストは単なる聖人か?」ヨハネ1章1-5節音声で聴く。

ヨハネ1:1−5     「キリストは単なる聖人か?」       19/7.7

【序】小学生の時にイエス・キリストは三大聖人と習った。釈迦、孔子、そしてキリストだと。しかしヨハネが語るキリストは違う。イエスキリストは一体誰なのか?先週、ヨハネの福音書はキリストが個人を取り扱われる福音書だと語ったが、その個人を取り扱われるキリストとは、どのような方なのか、をヨハネは語る。


T.キリストは神

「初めにことばがあった」(1)とある。そしてこの「ことば」を追って読んでいくと「ことば」「父なる神と共におられ」そして「ことば」=「神」と語り(1)、そしてことばが何者なのか、更にヨハネは語っていく。「ことば→人となり(14)→イエスキリスト(17)だと語る。すなわちキリストは神である、と最も身近にいたヨハネが主張する。この福音書を通してキリストの奇跡や教えがその証をすることになる。嘘では書けない。なぜなら当時の人々がその事実を知っているから嘘を書けばバレるからである。キリストは人となられた神なのだ。

【例証】人間の見える感覚や判断が全て正しいのではない。聖書は神の側から書かれた真理なのだ…(二枚の絵)


U.キリストは万物の創造者

「全てのものはこの方によって造られた」(1:3)

創世記にある天地創造や人間創造は父なる神お一人がされたと思うかもしれないが、キリストとの共同作業である→「このかたによらずにできたものは一つもない(1:3b)ここに慰めがある!

【適用】この世に存在するものは人間にとって良いと思われるものもあるがそうでないと思うものもある。災い、試練、病など。その時ただ辛いだけに思えるが創世記のヨセフも17歳の時には兄たちの虐待を受けエジプトに奴隷として売られた時点だけで見ればただ苦しいだけであったが、後のエジプトでの活躍を見れば意味が分かる。全ては最善をもって導かれた。今だけを見ない事だ!

 

V.キリストは闇を照らす救い主

  この神であるキリストはある目的を持って地上に来られた。それは「光は闇の中に輝いている」(5)つまり闇の中にある人々にいのちの光を与える為なのだ。

【適用】現在、地球上に、人生に様々な闇が我々を覆っている。

明日がどうなるかという不安の闇、希望が見えないという失望の闇、自分の価値を見失って生きる意味が分からないという価値喪失の闇、そして死の彼方に希望を持てない死の闇。この闇を消すにはどうしたらよいか?真っ暗な部屋の闇消す方法は照明のボタンを押すことだ。同じように、人生と心の闇を照らすのはいのちの光であるキリストを受け入れ共に歩む事だ。

「私は世の光です。私に従ってくる者は闇の中を歩まない」(ヨハネ8:12

【証】三浦綾子トラクト[苦難の意味]…【次ページ参照】

三浦綾子トラクトー[苦難の意味]

私は若い時から病の多い人生だった。二十歳を過ぎてから肺結核にかかり、途中カリエスを併発して13年間病床に伏した。心臓が弱く血小板減少症という病気もした。更には直腸癌やパーキンソン病も経験し、他人から「何か祟られているのではないか」「信仰があるのになぜそんな病気にかかるのか」と言われてきた。また善意の人も「あなたは熱心な信仰があるのに、神様は何故あなたを病気にするのでしょう」という人もいた。これらの考えはともに因果応報の思想から来ているのであろう。

こういう考えの中で、私はキリストの言葉を読んだ。

「生まれつきの盲人に対して弟子たちがキリストに尋ねた『この人が生まれつき盲人なのは、誰が罪を犯したからですか、この人ですかそれとも両親ですか。』イエスは言われた『本人が罪を犯したのでもなく両親でもありません。ただ神の御業が彼の上に現れる為です』

この言葉を読んだとき、どれほど大きな慰めを得、力を与えられたか計り知れない。私と同様に慰められ力づけられた人が世界中にどれほどいる事か。様々な苦難にあっている人にとって、このキリストの言葉は多くの人を立ち上がらせるのである。  

この言葉の後、キリストはこの盲人を癒やしておられる。直したことは神の栄光を現わしたことになるであろうが、では癒やされえなかった苦難はどうなるのか、という疑問を持つ人はいるかもしれない。私は癒やされようと癒やされまいと、苦難にあえぐ人の傍らには神がまさしくそこに立っておられると思う。人間はどんな人でも皆死を免れない。もし病気が治らなければ神の栄光を現わすことができないとすれば、全ての人は死んでしまうのだから、一人として神の栄光を現わし得る人はいないということになる。

私は癌になった時、ティーリッヒの「神は癌をもつくられた」という言葉を読んだ。その時文字通り光が放たれたように感じた。神は愛なのである。その愛なる神が癌を造られたとしたら、その癌は人間にとって必ずしも悪いものとはいえないのではないか!「神の下さるものに悪いものはない」私はベッドで何度もそう呟いた。実に意味のある素晴らしいものに思われてきた。

いつしか私は妙な言い方だが「私が度々病気をするのはもしかしたら、神に依怙贔屓されているのではないか」と思うようになった。すると大きな平安が私を満たしたのである。この平安を思うと全く神の御業としか言いようのない気がする」

posted by kbcc at 10:28 | TrackBack(0) | 礼拝
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