2020年01月27日

2020年01月26日礼拝メッセージ「キリストの愛」 音声で聴く。


ローマ5:8,9          「キリストの愛」          20.1.26
【序】今日は伝道礼拝なので、果たして聖書は信じられるのかと疑問を持つ方もおられるので、主題に入る前に、地球学者が驚く聖書の言葉を語っておきたい。ヨブ28:5「地そのものは、そこから食物を出すが、その下は火のように沸き返っている」地球の中は鉄やニッケルがドロドロに溶けている3千度のマグマと呼ばれる火の塊だが、それを発見したのは1936年インゲ・レーマン。現代やっとわかった真理が何と3500年前に書かれたヨブ記にある。その意味するところは、聖書は地球の作者である方の言葉ですよ。作者なら作品に関するコメントも正しくできる。だから信じてよい書です、と語っている。しかしその前提の中で聖書が一番伝えたいのが今日語る「キリストの愛」である。

T.私たちは罪びとである(8a)
「罪」=盗みや殺人という法律上の罪ではない。「罪」=的外れ。即ち神に造られた人間が創造者である神という的を外して生きている状態の事。
【例】@柏木哲夫医師…「人生は方向性で決まる」…「食欲は戻ったがよく眠れない」と「よく眠れてないが食欲は戻って感謝だ」。どちらが早く治るか?→後者!どちらの方向を見るかで免疫力も幸福度も違う。A家庭で…夫がもし家庭を顧みず家族は放ったらかし、妻や子供の誕生日も忘れ、何を言っても顧みないと、やがて家族から失望され→諦められ→口を聞いてもらえない。なぜ?壁ができたから。→同じ様に神にそっぽを向き背を向き続けると神と人との間に壁ができる。それが神に対する人間の根源的罪である。

U.キリストの愛―私達罪人のために死んでくださる愛(8b)
キリストの尊さはどこにあるか?死んで下さった事自体にあるのではない。それなら自分の命を犠牲にした人は世界にいる(自爆テロリストも)。キリストの死の尊さは、感謝される保証もなく、否、拒絶される可能性もある中で、それでも人間の救いにはこの道しかないとして私たちの罪の身代わりになって止むに止まれず罪人の私達を愛して十字架にかかり救いの道を開いて下さったことにある。止むにやまれず愛で動くのは感動する。
【証】吉岡たすく(教育者)…小学3年生のおとなしい目立たない生徒(成績もオール3このコーちゃんという子が休み時間隣の教室で騒がしいので行ってみるとコーちゃんが隣の組の男子児童にシャツを破られても睨みつけて立ち向かっている。吉岡先生は何とか引き離してクラスに戻ってくると、皆が「コーちゃん悪くない、悪いのは隣の子だ」それはクラスに髪を長く垂らして顔を隠していた女子がいたが隣のクラスの子に髪を上げられそこに痣があるのをからかわれた。そこでコーちゃんはその子に憤りに満たされ止むに止まれぬ思いで向かっていったのである。
このコーちゃんは人間の醜いいじめに対する憤りで止むにやまれぬ思いで動いたのだが、キリストは感謝される保証もない中で、それでもそれしかない私たちの罪からの救いのめに止むにやまれぬ思いで十字架にかかってくださったのである。ここに愛がある。

V.義と認められた私たちは神の怒りから救われる(9)
日本では悪いことが起こったり、悪い病気になったりするとすぐに何か罰が当たったのでは、という人々がいる。しかし「怒りから救われるのは」決定的!罪の記録や記憶からも救われている。
【証】友人が高校生時の証…長期欠席の友人を訪ねて家に行ったら豪邸で池があり錦鯉がいた。おばあ様が大切にしていた錦鯉だが友人が「腹減ったやろ。鯉でも食べるか」、鯉を生け捕りにして包丁いれようとする。それで「それはあかんやろ」と静止して鯉を池に戻したが死んでしまった。おばあ様に平謝りしたら、肩を落とされたが赦してくれた。ホッとして後に友人の家に行ったら「鯉の友人が来てくれはったよ」その言葉は辛かった。赦されているが常に記憶にとどまっていた。キリストによる赦しは記録からも記憶からも完全帳消しなのである!→イザヤ43:25

posted by kbcc at 22:21 | TrackBack(0) | 礼拝
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