2020年05月03日

2020年5月3日礼拝メッセージ「聖書からコロナ感染を考える」1コリント10:13 

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【序】今年に入り新型コロナウイルスが発症し瞬く間に感染が世界大に拡がった。5月に入っても収束の兆しが見えてこない。そんな中キリスト教世界でも様々なコメントが出ているが、違うのではないかと思う事もあり、私も発信すべきと思い、結論めいたものは言えないまでも、聖書的な考察ができればと願いつつお語りしたい。


T.コロナウイルスという疫病は終末時代に入ったしるしであるという考え

 確かに「黙示録」にも世の終わりに疫病が蔓延することが語られてはいる。しかし疫病が終末時代の印かというと違う。なぜなら疫病は人類の歴史で常に存在していたからだ。古代ではライ病や天然痘。中世では黒死病と恐れられたペスト(死者2500万人、コロナ20万人)。又近代ではコレラ、現代ではエボラ熱やコロナウイルス。いつの時代でも疫病が人類を脅かしたのである。なので疫病=終末の印ではない。キリストが終末時代の明確な印と言われたのは「荒らす忌まわしいものが聖なるところ(エルサレム神殿)に立つ」(マタイ24:15)時だと覚えておこう。(未だ神殿は建っていない)


U.コロナウイルス蔓延は人間に罪の悔い改めを迫る警告だという考え

 この言葉をコロナ感染で亡くなった方の遺族の前で語れるだろうか?亡くなられた方は悪人だろうか、そうではない。軽率な間違った判断でコロナウイルスの解釈をするのは極めて危険である。ルカ13:1-5にこんな話がある、シロアムの塔が倒れ下敷きになって死んだ人は、助かった人より罪深いのか?と尋ねた人に、キリストは「あなたがたがそういう考えである事こそ悔い改めねばならない」と言われた。因果応報は間違った思想である。


V.コロナウイルス蔓延は「試練」である

 当たらぬ意味づけを止めて聖書に聞こう。この疫病は地球規模の「試練」という事だ(

Tコリント10:13)「試練」には「脱出の道」があるのと同時に、学ぶべき事がある。

忍耐

感染者数が少し少なくなった次の連休で花見、行楽に多くの人が出かけ、その後の週の数値は一気に倍に上がった。羽目を外したとは言わないが、我慢しなければならない時がある。聖書は「忍耐を十分に働かせなさい。何一つ欠けたところのない成熟したになれる」(ヤコブ1:4) つまり忍耐は成熟した人格に不可欠なのだ。

愛と祈りで助ける

使徒14章にはペテロが迫害を受けて獄屋に捕らわれた事が載っている。その時教会では祈っていたと記し、その祈りによってペテロが助かったことを証す。祈りは独り言ではない。祈りは神の力と人の助けに有益なのだ。今医療者は必死の努力をされている。私たちは医学的には何もできないかもしれないが、祈りで支えることはできる。また受け身だけではなくマスクを個人で作って諸教会で必要なところに送ってもいい。

福音宣教の拡大ととらえる

今まで教会は個人が家から出て教会に来るという動きであった。しかしインターネット礼拝は教会から福音が発信されて各家に、個人に伝達される。方向が違うのである。教会に招くのは限界があるが、各家で、個人で教会から発信されたメッセージを聞くのは無限大に広がる。コロナ感染はこのような伝道の在り方を変える突破口でもある。

posted by kbcc at 08:00 | TrackBack(0) | 礼拝
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