2021年08月01日

2021年8月1日 インターネット礼拝 箴言17:17 「私を友と呼ぶ方」 




前奏
新聖歌 266(1,3)一 同
祈り 司会者
主の祈り 一同
聖書 箴言17:17
メッセージ 中西牧師
「私を友と呼ぶ方」
新聖歌 342(1,4) 一 同
祝祷 中西牧師
後奏
報告

【序】あなたには「親友」と呼ばれる人がいるだろうか?人と深く関わることを避ける現代では案外親友がいないのではないか?又クリスチャンはどうだろうか?改めて今日の主題「友」について考えたい。

T.真実の友とはどのような人か?
【例証】ある大学の文化祭でアンケートをしたそうだ。「あなたには親友がいますか?」すると「いる」と答えた人が88%もあった。主催者側は、本当にそんな多くの人に親友がいるのか、疑問だった。それで出した結論は、多くの学生は「親友」「仲間」を混同しているのだ、と。
仲間はいる。仕事仲間、勉強仲間、遊び仲間…しかし仲間はある共通の目的のためにできた関係で、それ以上の関係ではない。では真の友とはどういう人のことか?今日の御言葉に答えがある→「友はどんな時にも愛するもの。兄弟は苦難を分けあうために生まれる」(17) 「真実の友」とは、人生の悲しみや苦しみの時にも見放さず、共に担い合う人のことだと言える。

U.私たちはすでに「真実の友」を得ている
そうなるとクリスチャンも信仰仲間はいても親友と呼べる人はいない不安を感じるかもしれない。しかし、クリスチャンには真の友が存在する! ヨハネ15:13,14を読んでみよう。ここに素晴らしい真の友がクリスチャンにはいることがわかる→「人が自分の友のために命を捨てること、これよりも大きな愛は誰も持っていません…あなたがたはわたしの友です」キリストは私達の罪の裁きを命を捨ててまで十字架でささげて下さった愛の御方。そして今も守り、必要を満たし、罪を犯した時でさえ最後まで見放さない御方。しかも、頭が下がるのは、私たちがキリストから友と呼ばれる理由→私たちが主のために命を捨てるからではなく、主の御心を行うだけで私を友と呼んでくださる方!

V.「真実の友」は人に求めるよりも自分がなるもの
 1997年8月と9月に二人の有名な人が亡くなった。一人はダイアナ妃、もう一人はマザーテレサ。二人は対照的な人生。ダイアナ妃は「愛されること」を求め続けた人。その最後は哀れだった。マザーテレサは「愛すること」を求め続けた人だ。残念ながら「愛されること」を「人」に求めると惨めな結果になる場合がある。神に愛されることを知った者は人を愛する事だ。 
【証】1985年8月ジャンボジェット機墜落事故の犠牲者を夫に持つ婦人の話…教会で色々言葉をかけられたが、時に心無い言葉で落ち込んだ。そんな時近所の八百屋さん「奥さん大変な事になりましたね。食事も喉を通らないでしょう。買い物もする気にならないでしょう。お気の毒に。…私、これだけ持ってきました」どっさり入った野菜かごを持って涙を流したそうだ。それが一番慰められたと→「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け」(ローマ12:15)
posted by kbcc at 08:00 | TrackBack(0) | 礼拝
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