2019年06月18日

2019年6月16日礼拝メッセージ 「もう一人の父」マタイ7章7-11節音声で聴く。


マタイ7:711                「もう一人の父」                19/6.16

【序】父の日はアメリカの婦人から始まり、世界中へ広がった。父に感謝する日だ。ところで、私たちには2人の“父”がいる。一人は肉親の父。もう一人は天の父だ。主は、後者の父を明らかにされた。どんな方だろうか。

T.キリストは神を“父”と呼ばれた

7節は有名だが、神=願い事を叶える存在では、神社と大差ない。一方、キリストは、神を“父”と明確に定義された(11)。聖書の神は、願い事を叶えるだけの遠い存在ではない。私たちに関心を持ち、関係を求めている。ヨハネ1:12参照。天の父は、全ての人をご自分の子にしようと招いている。私たちがキリストを信じるなら、神の子どもとなる特権を与えられ、神は父となられ、神の家族として、あらゆる祝福を頂けるようになる。

U.天の父はどのようなお方か

父”に良い印象を持たない方もいる。しかし、肉親の父とは全く異なり、天の父は以下のような方である。

@あなたの存在そのものを喜ばれる方

子どもは親を喜ばせるために、何かする必要はない。そこにいるだけで、親は満足できる。愛しているからだ。天の父もあなたをそのように見ている。あなたは神の子ども。我が子を喜ぶのに理由は要らない。あなたは正にその対象なのだ。

A良いものを惜しまない方

キリストは神と私たちを親子関係に例えられた(9-11)。罪深い、不完全な父親でも、お腹を空かせた我が子には親切だ。石や蛇を与える親はいない。まして、聖なる、完全な天の父は、あなたがたにどんなに良くして下さるだろうと言われた。【適用】しかし、求めても与えられない場合、どう理解すればいいのか。それは「与えない」というのが、父の答えなのだ。伝7:14「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ」とある。与えられないならば、父にはよほどの考えがあるのだ。∴待ち、信頼せよ。父は父が考える最善を下さる。

B罪を犯しても変わらず愛して下さる方

聖書の中で“放蕩息子”の物語ほど、神のご性質を明らかにした話はない。息子が立ち返った時、父は何をしただろう?プレゼント(服、指輪、靴)を与えた。これらの3つは、どれもサイズがぴったりだった。→我が子を知り尽くしていたからだ。【適用】「罪を憎んで人を憎まず。」これが天の父だ。罪ゆえに関係が冷え込んでも、あなたが子であることに変わりない。

V.父は求める者に報いて下さる

7節の動詞はそれぞれ「○○し続けなさい」という命令法である。良い意味で、しつこく、あつかましく求める必要がある。また、祈るだけでなく、行動を起こすことも大切だ。捜し求め、自分にできる可能性を試す。そこに答えが与えられる。

証】私と妻は、市から発行される妊婦受診の割引券を紛失した。祈り、捜し回ったが、全然見つからず、大変失望した。しかし天の父は、別の方法で私たちの祈りに答えて下さった。

【証】疑い深い手品師J・モンロー「神よ。あなたが本当にいるのだとしたら、到底無視できないほどの確かな証拠をもって私に示して下さい」と祈った。その後、珍しい病気にかかり、骨髄移植が必要になったが、奇跡的に生還を果たすことができた。今、彼は自らの経験を人々に語り、ドナーバンクの啓蒙活動も行っている。

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2019年06月10日

2019年6月9日礼拝メッセージ 「私たちは力を必要としている」ルカ24章45-49節音声で聴く。

ルカ24:45−49      「私たちは力を必要としている」     19/6.9 

【序】2年前の7月、金剛団地に百年に一度花センチュリーフラワーが咲いた。ラジオやマスコミでも取り上げられ、あちこちから見に来て写真を撮っていた。こういう話はその花を見た人は友人知人に伝えたいという気持ちになる。それを思えば、もっと凄いビッグニュース、キリストの復活は弟子達も放っていても伝えたくなる話だが、キリストはそれを止め、待てと言われた。いったいなぜ?その理由は私達も人生を生きる上でこれから行動という時に備えるべき三つの要素でもある。


T.聖書による確信を得る

 キリストがご自分の復活の姿を見た弟子達に驚きのニュースを伝える行動にストップをかけられた理由は、衝動や情熱では困難が起こると挫折し易いからだ。

【例】情熱の限界―結婚した時は恋愛という情熱があれば大丈夫と感じ易い。「君といると幸せで僕は息が止まりそうだよ」十年後そうは行かない「君といると息が詰まるんだよ」と。情熱は長く続かない。

では何が必要なのか?聖書による確信である(45)→そうでないと単なる勢いや情熱では信仰生活もとん挫すし惰性になる。それ故復活信仰も聖書による確信が必要なのだ!【証】私の生きる上で得た聖書の確信…開拓伝道も会堂建設の時も…


U.使命感を得る

  「主の証人」(48)―自分の使命は何かという自覚

人にはそれぞれ生かされた使命がある。マザーテレサ「人生はやりたいことをするためにあるのではなく、成すべき事を果たすためにある」自分の使命を見いだすと人生で大きなエネルギーをもたらす。

※苦しい事ばかりが多くて自分の使命が分からないという方に:聖書によれば、その苦難さえ使命と変える経験である。キリストがその事を示しておられ励まして下さる。→ルカ22:31,32

【例】サリバン女史…母に死に別れ父に捨てられ孤児院に預けられ否定的になっていた彼女がキリストを救い主と信じた時、自分の孤独と苦難をも主に用いられる使命に生きる事が出来、大きな働きをする事が出来た。苦難を負った彼女でなければヘレンケラーを導けなかったであろう。


V.神の力を得る

  どんなものでも動くのには力がいる、車でも飛行機でも。人間もそうだ。当面食料が無ければ動けないが、如何に素晴らしい食料があっても困難に立ち向かう事は出来ない。別の力が必要なのだ。というのも人には致命的な弱さがある。「孤独と困難」に弱いのだ。それ故神は一人でも困難でもやりぬくを約束された49

【証】神の力の体験…飽き性の私が45年も駅前伝道を無理なく導かれている事。しかも喜びをもって!これは神の力が与えられてなければできないことだ。私の飽き性という性格から分かる。これは私だから特別というのではない。聖書には皆それぞれの必要から力が与えられている、モーセには「奇跡」の力。ダビデには「困難な中の平安」あなたにもそれ相応の力を賜る!

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2019年06月03日

2019年6月2日礼拝メッセージ 「心の開眼」ルカ24章13-35節音声で聴く。

ルカ24:13−35          「心の開眼」        19/6.2

【序】人間の目って不思議。目の前にあるのに見えてないことがある。視力が原因ばかりではない。勘違いしているとか、心が違うことで一杯になっていると、目の前にあるのが見えない訳だ。…今日の箇所は二人の弟子達に復活されたキリストが近づかれたが、そのお方がキリストだとはわからなかった。今日は「心の開眼」と題してメッセージしたい。


T.目の前の真実が見えてない訳

 隣に復活のキリストがおられるのに分からない。聖書は「遮られている」からだと語る。

もう少し具体的に言うと二つのことが考えられる。

1.失望のために見るべきものが見えなくなっている

    弟子達はイエス様に「望みをかけていた」(21)しかし十字架に架かって死んでしまい、望みが絶たれた(20失望とは単に望みが無くなる事ではない。失望とは失ったものばかりが大きく見えてしまい、見るべき神が見えなくなる事だ。

【適用】涙で曇った目には空を見上げても星が見えないように、失望が大きいと目が遮られて希望が見えない→信仰と希望は神にかかっている」(Tペテロ1:21

  2.考え違いのために見るべきものが見えなくなっている

    エマオ途上の弟子達はキリストを「力ある預言者」(19)としてしか理解しておらず、神の御子が復活するなんて信じられなかった(25)経験や理性を超えられなかった。

【適用】かつて1年間熱心に礼拝に通われた方がいた。その後挨拶をされて通われなくなった。理由はキリストが天才的な宗教家とは思えても、どうしても神の御子とは信じられない。結局自分の理性の域を超えられなかった。求道者よ。究極は自分の理性を信じるか、聖書を信じるかのどちらかである。


U.キリストは真実が分かるまで共に歩んで下さる

励まされる事は、真理が見えず不信仰と小さな理性の世界にいる弟子達のことを、キリストは真理が分かるまで見離さず共に歩んでくださることである。

【適用】「胎内にいる時から担われており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になってもわたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。尚、わたしは運ぼう。わたしは背負って救い出そう」(イザヤ46:34)

私達も主が共に歩んでおられるのに分からぬ時がある。一人だ、孤独だと思っていても、実際は主があなたと共に重荷も背負い担っていて下さるのだ。


V.目を開かせるもの

御言葉の正しい解き明かし。これによって目が開かれていく(27)

【証】「心の開眼」を通して家族の救いが次々と展開していった証…(次頁参照)


東京在住の38歳で癌になられた婦人がいた。熱心なクリスチャンであったが、末期癌と分かり、家族は口々に「あんたみたいな熱心な人でもこんな病になるのか!」と夫や姑そして子供までもがそう非難する。彼女も「なぜ私がこんな病に?」と悩んだがある晩夢を見た。十字架に掛かったイエス様の姿の夢。すると段々イエス様の姿が消えて、今度は自分がイエス様と共に十字架にかかっていく姿。そのとき神の声が聞こえてきた「わたしはあなたの重荷を知っている。わたしのすることに間違いはないのだから一切をわたしの手に委ねなさい」夢が覚め平安が来た。それから迷いは無くなった。あと何カ月生きることができるかわからないが、御手にゆだねて日記をつけ出した。祈りの日記。「今日もお父さんのために祈った。お義母さんの救いのために祈った。あの放蕩して家を飛び出した弟のためにも祈った。子供のためにも」と。自分が苦しいなんか一つも書かず祈りだけのノート。でもだんだん身体も弱くなり字もかすれてきた。それでも書き続けた。そういうことがあっても家族の態度は変わらなかった。とうとう召され、告別式が行われた。牧師は臨終に駆け付け、誰にも見せなかったノートを見つけそれを告別式で読んだ。その時親に迷惑をかけて家を飛びだしていた弟がワーッと泣き出した。なんだかんだとケチをつけていた姑も泣き出した。夫も泣き出した。とうとう告別式が終わる時、弟が前に出てきて「姉はこんな苦しいのに、僕のために祈ってくれていた。何と僕は神様に背を向けた罪人か!神さま、赦してください。今日からキリストを信じます」すると仲の悪かった姑も「私も信じるわ」夫も「私も教会に行く」と。その婦人の「心の開眼」を通して家族の救いという祝福をもたらしたのである。

エペソ1:18「心の目がはっきりと見えるように…」


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