2019年08月19日

2019年8月18日礼拝メッセージ「不可能の壁を破る」ヨハネ4:7−26 音声で聴く。

ヨハネ4:7−26       「不可能の壁を破る」       19/8.18

【序】人間自体は羽根がないので空を飛べない。で、人類は長い間空を飛ぶ事を諦めてきたが、それならエンジンを使って空を飛ぶ事ができるのではないかと考え飛んだ人がいた。自転車屋を営む米国人ライト兄弟,1903年の事。不可能の壁を破る人は常に新しい発想がある。今日の聖書の人物は虚しい生活から出直そうとするが何度も失敗し絶望。キリストに出会い虚しさからの解放という不可能の壁が破られていく。その為に何が必要か?


T.否定的な思いを捨てる

 彼女は暑い昼に井戸の水汲みに来る。低血圧?否!五度の結婚に挫折し、人の噂を立てられるのが嫌で朝ではなく昼に来るのだ。結婚に失望しているが、それ以上に問題は否定的な考えに支配されていることである→彼女は水がほしいのに「汲む物がない。水は深い」(11)否定的なことばかりを数えている。世にはできるという計算よりもできない計算を得意としている人がいるが、新しく変えられる為には否定的な思いを捨てる必要がある。あなたも「私が変わる事は不可能だ」と言ってないか?私達の問題は、否定的な思い込みが強すぎる事だ。人間がどんなに否定的な結論を出しても、それが最終的な結論ではない。聖書の神は全能の神!→エペソ3:20「どうか、私達のうちに働く力によって、私達の願うところ、思うところのすべてを超えて豊かに施すことのできる方に」である!要は否定的な思い込みが変えられることが大切だ。


U.自分の問題から逃げない

 主が「夫を呼んできなさい」(16)と言われた時、彼女を辱める為ではなく、新しい人生を提供する為であった。なぜなら新たなスタートは問題の根から始まるからである。しかし彼女はその問をかわして逃げようとした(17)問題から逃げると問題に追いつかれる。創世記のヤコブが良い例だ。父を騙して逃げたが自分が叔父から騙された。確かに人は自分の本当の姿を直視したくない者である。イソップの狐の様に手の届かない葡萄を酔い葡萄と決めつけ真剣に取り組まないのと同じ。しかし自分の問題から逃げてばかりいると何も生まれない。問題の根を愛の神に指摘されるのは真の解決のためであるのを知って逃げないようにしたいものだ。 


V.キリストの愛は不可能を可能にする力である

彼女は結婚生活に失望し、町の人からは蔑まれ、自分なんか誰からも愛されない人間だと孤独と絶望の日々にあった。しかし違ったのだ。キリストは彼女一人のために暑い昼下がりに、井戸で待ち続けられた。彼女にご自身の愛と力を知らせ、不可能を可能にする人生を提供するためであった。同じ様にキリストはあなたが教会に来るまであなたをずっと待っておられたお方。あなたの過去がどんなに悲惨であっても、祝福の人生を提供し、婦人があれほど嫌がっていた人達に会い証さえする力を得たように(28,29)、今もキリストはあなたに十字架で示された愛によって不可能の壁を打ち破らせて下さるお方である。

【証】犬養美智子著『人間の大地』国際赤十字で働くピーター…(次頁参照)

『人間の大地』(犬養美智子著)

アフリカでの難民キャンプに7万人も収容されていたが、その中に一人の幼い子供がいた。親は死んだか殺されたか、兄弟がいるのかいないのか一言も口を   聞かず、ただ空虚な顔で空を見上げたままであった。衰弱しきった体は熱帯性疫病の絶好の餌食で、その子は病気を幾つも持っていた。国際赤十字の医師団は打てるだけの手を打ち尽くしたが、治療の道も途絶え、あとは衰弱して死んでいくしか道は残っていなかった。

その赤十字で働く青年ボランティアの中にピーターという青年がいた。医者がさじを投げた時から、ピーターは特別の許可を得て子供を抱き、夕方5時半にはボランティア団もキャンプを離れる規則になっていたが、子供を抱き続けた。子供の頬を撫で、耳元で繰り返し子守唄を歌い、また神の愛が注がれるように祈り続けた。全身蚊に刺されながら、抱いて励まし続けた。そして三日目である。その子はピーターの目をじっと見、にっこり笑ったのである。自分を愛してくれる人がいた。自分を大事に思ってくれる人がいた。この気持ちが無表情の石のごとく閉ざされていた子供の心を開かせたのであった。ピーターは泣いた。更にスプーン一杯の食べ物を口に持っていくと子供は食べた。絶望が希望に変わった瞬間であり、愛によって不可能が可能に変わった瞬間でもあった。

犬養さんは「私にとって生涯忘れる事ができない出来事でした」と記している。

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2019年08月12日

2019年8月11日礼拝メッセージ「天国はあるのか」 ヨハネ3:1−5音声で聴く。



【序】私はクリスチャンになるまで地上の人生が全てで死んだら終わりと思っていた。それで他人に迷惑をかけなければやりたい事をして生きればよいかと思っていたが、交通事故で吹っ飛ばされ意識が戻ってから「待てよ、死んで本当に終わりなのか、それとも何かあるのか?」と不安にもなった。今日出てくるニコデモは聖書学者で人々からの信頼も厚い指導者であったが、同じ質問を持っていた。私達も誰もが死ぬ。しかも死後の世界は未知の事だけに不安である。地上の人生を確かに歩むためにも、この質問に関する確信を得ておきたい。三つの確信について:


T.天国はあるという確信

誰も死後の世界を経験した人はいない。それだけに人が言えるのはせいぜい天

国はあるかもしれないという漠然とした考えや、あってほしいという願望でし

かない。しかし死後の世界について最も語られたのはキリストである、しかも

キリストの語る言葉は確信そのものである。ヨハネ伝から二つ引用したい。

@ヨハネ6:39,40

キリストの使命は父から委ねられた御子を信じる者を死後に甦らせて神の国に入れる並々ならぬ決意

 Aヨハネ14:1−3

最後の晩餐での言葉―翌日は壮絶な苦しみをもたらす十字架刑を承知の中、弟子たちのことを心配し、天国に場所を備えに行くことを語られた。


U.天国に入る条件に関する確信

日本では多くの人達が「真面目であれば、正しければ」行けるという儚い考えを持っている。しかし「正しければ」という基準は、何をもって「正しい」と言いうるか。「正しい」は都合で変わる。

【例】嘘をつくことに良心の呵責を感じる人もいれば、自分の都合で構わないという鈍感な良心もある。時折「私は良心に恥じることはしてこなかった」という方がいるが、はっきりさせないといけないのは、本当に良心に恥じることをしてこなかったのでそう言えるのか、それとも良心が鈍感で罪意識を感じなかっただけなのか、である。

元々人間には入国資格がないのだ。それで神は入国条件を示された。それは「新しく生まれる」(3)ということ。具体的には5節「水と御霊によってしか神の国を見る(入る)ことはできない」。「水」=洗礼の事。「御霊」=聖霊の働きである罪を認め、キリストを救い主と信じる信仰の事→Tコリント12:3


V.ニコデモの救いの確信

 ここでは答が出ず、長い間人々を憚って確信を持てなかったニコデモであった

が、後に立派な信仰告白をして救いの確信を得た→ヨハネ19:38,39 

【適用】求道者よ、時間がかかっても良い結論を出してほしい。M兄の求道年数(30)

     信仰者よ、ここ一番の時がある。その時信仰を恥じることなく言い表そう。

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2019年08月05日

2019年8月4日礼拝メッセージ「質的人生の転換」ヨハネ2:1−11 中西正夫牧師音声で聴く。

ヨハネ2:1−11 「質的人生の転換」   

序】かつて教会で開いていた英会話教室で、ある生徒さんが「今度パーティを開きたいがワイン持ってきていいですか?キリストが水をワインに変えられた奇跡もあるので…」「アハハハ。よく知ってますね。でも教会ではお酒のパーティはしないんですよ。お家で皆さんと楽しんで下さい」といって丁重にお断りした事があった。この奇跡は教会推奨のお酒があるという話ではない。この奇跡は大切な二つの質的転換を私達に示すメッセージが含まれている。お伝えしたい。


T.清めの道に関する質的転換

我が国日本ではどうしたら金儲けができ、成功し、幸せになるかが関心だが、ユダヤではそうではなかった。如何にして神の前に清いものであるか、だった。

なぜなら大金持ちになった翌日死んでしまえば金儲けは無意味。ましてや死後の裁きで神に義とされず滅びを宣告されるならなお無意味!だからユダヤ人は

普段から穢れから清められることに非常に気を使っていた。結婚式も汚れない為の「水」が置かれ参加者に水を注いで結婚式に臨むしきたりがあった(6)。

しかし水は外側を清めても内側を清めない。心の内の醜い思いや恥ずかしい汚  

れをどうして清めうるか。心の内を全て知られる神の前には不完全→真に清めるのは「水」ではなく、私たちの罪のために身代わりに神の裁きを受けて下さった十字架の血。→それを象徴するのが初代教会で聖餐式の時に使われるぶどう酒であった。キリストは葡萄酒をとって言われた「この杯から飲みなさい。これは…罪を赦すために流されるものです」(マタイ26:28)。つまり清めの道は水ではなくキリストの血であった→今日聖餐式で飲む葡萄汁がその恵みを記憶させてくれる。水を葡萄酒に変えられた奇跡は、真の清めが水ではなくキリストの血による事を示しているのである→十字架上のキリストの血は私の罪の為であったと信じる者に罪の赦しが与えられる(へブル8:12)!


U.親子関係の質的転換

葡萄酒が無くなった時、母マリヤがイエスに求めた時の主の言葉に驚かされる「女の方。あなたはわたしと何の関係がありますか」(4)なんと冷たい態度?

誤解しないでほしいが、主は決して冷たいお方ではない。十字架の苦しみの中でも母マリヤの老後を思いヨハネにその事を託しているほど心配される愛の御方である。では何か?これは「神を親子の間に置く縦の関係」で会話されたという事だ。今まで母マリヤは我が子イエスの逞しい成長に喜びを感じてきた。誇りにさえ思ってきただろう。そしてこの葡萄酒欠乏の時こそ母の出番と思い我が子に求めた。あくまで母としての要求。それに対して「お母さん」ではなく「女の方」(4)その言葉を聞いてマリヤもハッと気づき「あの方が言われることは何でもして下さい」(5)と気づいてゆだねていく。

【適用】私達も人生のどこかで親子のあり方の質的転換が起こるべきである。「我が子、我が子」と思っていると依存と支配関係しか起こらなくなる。我が子が我が者になり易い関係から神様に委ねていくことである。親子間に縦の関係を置く重要性。【証】盲目になった子の母への思い…「白いステッキ」(次ページ参照)

白いステッキ

母さん、ボク白いステッキをもって歩くことにするよ。

母さんは「そんなかっこわるいことしなくていい、母さんがあんたの足になってあげる、目になってあげる」って言うけど、それじゃあ、一生、ボクは母さんの世話にならないと生きていけないことになるよ。

目の見えないボクが白いステッキを持って歩くのは当たり前なんだよ。恥ずかしいことじゃないんだ。

母さんが恥ずかしいと思ってるだけなんじゃないの?

ボクが白いステッキを持って歩くのは、ちゃんとひとりで生きていこうとする気持ちの表れなんだ。そう思ってほしい。

最初はこけたり躓いたりするかもしれないけれど、イエス様が

ついてくれているから大丈夫だよ!

僕は白いステッキを持って神様とちゃんと歩いていきたいんだ

だから心配しないで。

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