2018年07月25日

2018年7月22日礼拝メッセージ「喜びの日々を生きるために」使徒3章4-8節 音声で聴く。

使徒3:4−8        「喜びの日々を生きるために」      18.7.22

子供と大人の笑う時間についての統計を読んだ。子供は一日で2時間笑っているらしい。それに対して大人は一日2分間。僅か2分間って思うが、そうらしい。つまり一時間で5秒しか笑っていない計算になる。後はムスッとしているのだが、一番ムスッとしているのは家だそうだ。心当たりありますか? 一回限りの人生、喜びの日々を生きていきたいものだ。今日のメッセージがそのための助けになれば幸い。


T.玉木愛子さんの俳句に見る前向きな生き方

(ホトトギス派の俳人―16才の時、ハンセン病に罹り、長島愛生園に入園、82才の召天までそこで過ごす。ハンセン病はライ菌で神経が冒され顔や身体が崩れていく病、なのにこんな句を作られた。「目をささげ手足をささげクリスマス」玉木さんは「失った」という表現を使わず「ささげ」と語った。この歌は、喪失を恨めしい、負け惜しみ、というのではない。神に捧げたと言い得る感謝と深い信仰の歌!普通はこうは行かない。次の生き方になるのではないか。


U.後ろ向きな生き方

@失った事にいつまでも執着する―喪失は「悲しみ作業」という言葉があるように自然な悲しみの時を過ごすことは大切だが、一向に前を向かないのはいけない。

Aできない事に当たらぬ言い訳ばかり。取れない葡萄を酸い葡萄と決めつけるソップの狐…

B思うように行かない事で他人に八つ当たりする。

※一体どうして玉木さんの様な心境になれるだろうか?そのために二つの勧め:


V.喜びの日々を生きるための勧め(具体的生き方と根本的生き方)

1.喜びのハードルを下げませんか(具体的生き方)

私たちは誰もが裸で生まれゼロから人生をスタートする。そこに色々なものをくっつけていく。知識もお金も成功も…これ自体は良いのだが、問題はいつの間にかその獲得したものが当たり前になってしまう事。しかし当たり前ではないのだ。ヨブの告白の様に「裸で胎を出て裸でかしこに帰ろう」(ヨブ1:21)なのだ。だから喜びのハードルを低くしないといけない。例えば、長く入院生活した人が家に帰って普段の食事、枕、庭いじりを改めて感謝する。当たり前ではなかった。サンタモニカの海岸から見る夕日も高辺台公園から見る夕日も同じなのだ。喜びのハードルを下げては如何か!

2.神の御子キリストと個人的関係を持ちませんか(根本的生き方)

ペテロはこう言った。「金銀は私にはない。しかし私にあるものをあげよう。ナザレのイエスキリストの名によって歩きなさい」(使徒3:6確かにお金には力がある。家も買える、しかしか家庭は買えない。お金で高価な医療を受けることができる、しかし死に勝つ永遠の命は買えない。お金で平安も自由も喜びも買えないのだ。しかしキリストは永遠の命も平安も喜びもお与えになる。

【証】瞬き詩人の水野源三さんの証…次頁参照

【水野源三さんの証】

戦後しばらく経って、長野県の小学校で集団赤痢が発生し、55名が罹る。源三さんもその一人だった。三週間で峠を越したが高熱は下がらず、脳膜炎になり、意識が戻った時には手足の自由と言葉の自由を失う障害が残った。9歳の秋のことだった。「どうして僕はこんな病になり、こんな障害をもって生きるんだろう?そうまでして生きる意味があるのだろうか」…悶々とする苦悩の日々を過ごしていたが、12歳の時パン屋を営んでいた母の店に牧師がパンを買いに来、家に病人がいるのを知って「いかがですか」と尋ねた事から母は源三のことを伝えた。「そうだったんですか」と言い小さい聖書を置いて行った。源三の心は乾いていた。生きる意味を求めていた彼の心にキリストの言葉は慰めであり生きる力をもたらした。特にヨハネ9:1−3は心に響いた。弟子達がキリストに尋ねる「彼が生まれつき盲人のは誰が罪を犯したからですか?本人ですか、両親ですか?」キリストは答えられた「本人が罪を犯したのでもなく両親でもない。神のわざがこの人に現れるためである」何という素晴らしい言葉か!誰の罪の所為でこうなったのではなく、むしろ神を信じて生きる素晴らしさが僕に表れるなんて!源三の心はキリストこそ神の子救い主と信じる信仰に導かれた。それから不思議なことに信仰の詩が彼の心から多く生まれ始めた。瞬き詩人と言われるようになったのは病院で「ハイ」という時は目をつぶりなさい、と言われたことがきっかけ。また母が彼の言葉を何かに残せたらと思い五十音表を作り母が一つ一つ言葉を指して瞬きして答える。それが活字になって、信仰の歌がどんどん広がった。ある日姪から「病気のこと、どう思っているの?」と聞かれ、こう答えた。「感謝している。キリストを信じる事が出来たから」。この生き方は当時のNHKの朝の冠番組スタジオ102(鈴木健二)で取り上げられ全国に知られる所となった。→新聖歌292番「もしも私が苦しまなかったら」は彼の作。苦しみを恵みとして生きる喜びに溢れた歌である。

posted by kbcc at 12:49| 礼拝

2018年07月16日

2018年7月15日礼拝メッセージ「狭い門」ルカ13章22-24節 音声で聴く。

ルカ13:22−24          「狭い門」         18.7.15

【序】聖書は古代の本でありながら現代でも毎年ベストセラーを続けているスーパーベストセラーだが、何故か一般的に聖書の言葉が誤解されて使われている事が多い。「狭い門」もその一つ。競争率の高い受験などを「狭い門」と言う。でも本当の意味は違う。そこで今日は、誤解し易い「狭い門」について正しく理解しておきたい。


T.「狭い門」とは何か

狭い門の意味はここではわからない。そんな時は他の箇所を参照して見ると分かる。マタイ7:1314では狭い門=いのちに至る門のこと。肉体的命は私たちが既に今持っているものなので、その命ではなく、聖書が「永遠のいのち」と呼んでいるもの。つまり死後に与えられる永遠の命に至る門のことである。


U.この「狭い門」に対する態度はどうあるべきか

「努力して入りなさい」(24)と勧められている。

聖書が繰り返し語るのは、永遠の命を得るために難行苦行や善行、努力は要らない、ただキリストを救い主と信じる事だ、と言われる。けれどもここでは「努力して狭い門から入りなさい」と勧められる。この「努力」とはどういう意味か?→入るのに反対と躊躇いがあってもめげず努力して求め続けて遂には入れとの意味

【証】私の場合…家族に誰もクリスチャンはおらず。家族は反対するのではないかとか受験が済んでからでいいのではないか、と躊躇いがあった。実際父はこう言った「正夫が交通事故に遭い命拾いし、教会に行って救いを得たのは分かる。しかしどんな病人でも病院に行って直してもらったらいつまでも病院にはいないで普段の生活に戻るだろう。正夫もいつまでも教会にいなくてもよいではないか」と。私も思わず納得しそうだったが、それでもクリスチャンになったのは次の理由からであった。

V.なぜ「狭い門」を入る必要があるのか

様々な反対や躊躇い中で、それでも狭い門から入らないといけない理由が二つある。

@「入ろうとして入れない時が来るから」(24b)

地震がいつ来るかわからない様に、いつ死ぬかわからない、死んでからでは救いはない。聖書では死後の裁きとして地獄の火で燃やされる世界と表現する。ある無神論者が嘲笑って「そんな世界中の人の為の火をどこから神は用意するのか!おばあさんが答えた「そこへ行く一人一人が持っていくのさと。私たち自身の罪の火が私たちを焦がすのだ。故に地上の罪の解決はキリストにしかないのであるから早く信じる事だ。

A事実の上に成り立った信じるに足る教えだから。

【証】亀谷凌雲師の証…北陸の18代続く寺の住職の家系に生まれたが、東大に入り宗教を研究する中にキリスト教に触れ、その違いに驚く。特に仏教では死後の世界が不確か。極楽に行ったとされる御釈迦さんも死後に見た人はいない、仏になったであろう、そうあってほしいという願いだけで確証はない。しかし聖書を読んでキリストは死後復活して弟子達ばかりか多くの証人たちに復活の証拠を示し、その弟子は殉教までしている。何という違いか!圧倒され賀川豊彦の講演についていき、とうとうキリスト教信仰を持った。そうなると寺の一切を捨てねばならない、しかし捨てたと思ったものにまさる良きものを得たと述懐しておられる。

posted by kbcc at 20:52| 礼拝

2018年07月10日

2018年7月8日礼拝メッセージ「束縛からの解放」ルカ13章10-17節 音声で聴く。


ルカ13:10−17           「束縛からの解放」         18.7.8

【序】星野富弘さんの詩「動ける人が動かないでいるのには忍耐が必要だ。動けない人が動かないでいるのに忍耐など必要だろうか?そう気づいた時、ぐるぐるに体を巻き付けている棘の生えた縄がフッと解けた気がした」今日の聖書には18年も腰が曲がっていた婦人がキリストによって癒された出来事が記されている。それを「束縛からの解放」(16)と主が言われた。私たちも様々な事(健康、人間関係…)に束縛を感じているが、ここに束縛を解く三つのメッセージがある。


T.長い試練にも終わりの時がある

この婦人は18年間「腰が曲がった」状態(11)だった。年の所為ではなく「病の霊につかれて」(10)腰が曲がっていたのだ(10)18年は長く辛い。しかしキリストはこの婦人に目を留めキリストの方から婦人に声をかけ癒して下さった。どれだけ嬉しかったか!→「神をあがめた」とある位だ。試練が長いのは辛いが、聖書に「試練と共に脱出の道も備えられている」(Tコリント10:13)とある。どんな試練も終わる時があるのだ!人間には明日が分からないので不安になるが、聖書は必ず脱出の道がある事を私たちに教え励ましている。


U.病を癒す神がおられる

この婦人の病をキリストは癒された。この現代に神が癒すなんて「そんな奇跡があるのか?」と疑問に思う方もいるだろう。現代は医学が癒すという人もいる。しかしどんな名医でも病人の中に治癒力がなかったら癒されない。その治癒力を増し加えて癒すのは人間を造られた神なのだ。そして聖書には病に関して二種類の癒しの奇跡が記されている。一つは病そのものの癒し。もう一つは病に負けない心という癒しである。

【例】ヘレンケラーはサリバン先生を通して信仰を持ったが、三重苦が治ってはいない。しかし三重苦に負けない明るさと希望が信仰によって与えられ、それが世界中の人々に光と希望を与えた。

今日この様な心こそ大きな癒し解放ではないか!病と魂の救いの解放の為に祈ろう!


V.貶められた価値を回復されるキリストがおられる

心無い会堂管理者の態度(14)に比べて、キリストの愛の態度の素晴らしさが際立っている言葉!→「アブラハムの娘なのです」(16)ユダヤ人にとって信仰の父アブラハムの娘であると言われるのは最高の賛辞!彼女は社会で役立たずと言われたかもしれないが彼女を深く憐れむキリストは「アブラハムの娘なのです」(14)と最高の価値を示して下さった!

【証】リーダーズダイジェストの記事「重度障害児からピアニストへ」

優れた保母だったメイ・レキムに小児科医から電話があった「生まれつき目が見えず、脳性小児麻の6カ月の男の子の里親になってもらえないか」と。友人は、視覚もないし聴覚も触覚も反応がない子の世話なんて時間の無駄だと言うが、神の目にはどんな子も等しく価値があると信じる彼女は受諾し「この子の人生に意味があるように一つの才能を与えて下さい」と愛と祈りをもって育て続けた。そして彼が16歳になった時、奇跡が起こった。なんとそれまで音楽を聞かせてもピアノを与えても何の反応も示さなかったその子がある晩突然「チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番」を弾いた。更に19歳の時美声のバリトンで歌い始めた。そして26歳の時言葉を話し始めた。精神科医の専門家はこの出来事を説明できなかったが、彼はこう言った「僕を愛してくれる母のような人と神への祈りが奇跡を生んだのです」と。

posted by kbcc at 19:29| 礼拝