2018年03月11日

2018年3月11日礼拝メッセージ「一番偉い人」ルカ9章46-48節音声で聴く

ルカ9:46−48 一番偉い  

【序】開拓伝道初期に教会学校生に十戒を覚えさせようと書かせたら第戒「父と母を敬え」のところをある生徒「父と女を敬え」と答えた。間違っていると思ってその生徒に尋ねると「女の人は偉いと思って」と答えたもう既に悟りを聞いたのかと感じ瞬間だったところで今日の主題は「一番偉い人は誰か」である。学校の成績とかではなく人生を生きる上で大切な人間の在り方についてキリストが教えられたところである。


T.なぜこんな議論が始まったのか―この議論の根にあるもの

この議論は、どういう人が偉いか、という一般的な話ではなく、「自分たちの中で」の議論(46)→つまりはグループ内の競争心や妬みが根にある議論。自分が一番頑張ってる、何で彼奴がもてはやされる? 自分のが偉い筈だ」という愛とは違う方向の心だった。競争心とか妬みは自分と無関係の人との間にはない。身近な関係、時に兄妹、友人、同僚への感情「嫉妬」とは友人の幸福を祝福できない心

【星野富弘トラクト】周囲は不幸だと自分は幸福になり他人が幸福だと自分が幸福…

嫉妬心や競争心が高じるととんでもない結果を生み出す→カインの殺人も!


U.一番偉い人とは誰か

「あなたがたの中で一番小さい者が一番偉いのです」(48)では「赤ちゃん」か?否!

この意味は「最も謙遜な者が本当は最も偉大な者となるのだ」(LB訳)

アウグスチヌス「クリスチャンの徳の中で最も素晴らしい謙遜だと言った

【適用】私達は謙遜が大事だと思っても、それだけでは損をすると思っているところがある。我々関西人の腰の低さも商売上の話であって、相手が同じ様に腰が低いといいが、相手が大きな態度に出ると「何を!こっちが下手に出ればいい気になって!」とむきになって怒りだす。→謙遜の演技!本物ではない。

聖書に学ぶ真の謙遜とは何か

  @面子や立場を捨てて真理に従える心(間違ったことに気づいたら素直に謝る)

A人格に対する尊敬―相手の身分や職業で態度が変わったりしない。人間として尊敬する。

B成功や出世に自惚れず、神と人との愛顧があればこその事と知っている。


V.競争心や嫉妬心の克服の仕方

競争心や嫉妬心の中にある人は二つの点で誤りをしている。

 1.自分を誤って価値づけているー自分が世界の中心であって自分こそ恵まれ愛され注目されなければならないと錯覚。そうではない。あなたも私も罪深い弱い罪人。他人ではなくジッと自分を見つめる時哀れな罪人である。

 2.そんな自分を神が愛しておられることが解らない事人ばかり相手にして神を見上げないために妬みや競争心で地獄の苦しみを味わう。十字架

  「神は御自分の聖徒を特別に扱われる」(詩篇4:3)


posted by kbcc at 14:57| 礼拝

2018年03月05日

2018年3月4日礼拝メッセージ「きっと直る」ルカ8:43−48 音声で聴く

ルカ8:43−48   きっと直る」  

【序】牧会訪問で感じる事であるが、同じ様な問題や病気で悩む方にも心の奥に「希望」があるかないかは、回復において問題解決において随分違う結果を生み出すものだ。…今日の人物は絶望的な状況の中で決して望みを捨てず、遂に救いと社会生活の回復を得た人の話。


T.婦人の絶望的状況

「12年間、長血を患った女性」(43)―命の源である血を絶えず失う病であり、貧血と虚弱の身体で生きていた女性である。当時こういう女性の場合、祭司たちからは長血故に「汚れた女」とみなされ、町から隔絶された所で生きねばならなかった。加えてマルコ5:26では「多くの医者から酷い目にわされており、自分の持ち物を皆遣い果たし、しかも何の甲斐もなく却って悪くなる一方であった」とある。彼女は医療にも経済にも社会にも見離された悲惨な人生を生きていた。こんな時、生きる力を失い絶望状態になり易いが、彼女は望みを捨てなかった!いかなる状況にあっても、望みを捨ててはいけない。「失望したければ周りを見なさい、絶望したければ自分を見なさい。しかし希望を抱きたければ神を仰ぎなさい」(キルケゴール)内を見て横を見て失望してもまだ「上」があるのだ


U.絶望を変えるもの―キリストへの信仰のタッチ

そんなとき彼女はキリストの噂を聞いた。人々は言った「キリストは足なえを立たせた。盲人の目けた。死人さえ甦えらせた。お偉方の祭司と違ってあの売国奴の取税人さえ弟子として受け入れた。あの汚れた姦淫の女の罪を赦し新しい人生を与えられた。神の子、救い主ではないか」と。会いたい!でも汚れた人とレッテルを貼られた自分がどうして会えよう!しかし彼女は勇気を奮って群衆の中に紛れ込み、キリストの後からその衣の房に触った(43)彼女の思いをルコ5:28で「着物に触る事でもできればきっと直る、と考えていた」とある。信仰をもってタッチしたのだ。その時、出血が止まった!全身に生気が甦ってくるのがわかった。癒された!絶望を変えるもの―それはキリストへの信仰のタッチなのだ!

【適用】現代の礼拝でもただ興味本位で教会に来ている者と、信仰をもって近づいてくる者の違いが神にはおわかりになる!あなたが少しでもいい、キリストに信仰をもって近づくことを勧めたい!そのとき何かが起こる!


V.新しい希望に生きるために必要なものーキリストへの告白

彼女は一つだけ間違いを犯すところであった。黙って帰ろうとした事!心の中だけで済まそうとしたのだ。しかし心の中だけだと決心がうやむやになるのだ。古い自分と決別し、新しい自分を生きるためには、どこかで後ろを断ってけじめを必要とするキリストは誰が触ったか知ってはおられたであろうが、彼女に告白の機会を与えて新しく生きるチャンスを与えられた。もう一つ大事なことは彼女の病が公の場で「完治」と宣言されない限りいつまでも社会復帰ができない。キリストはその機会を彼女に与えて新しい人生を可能にさせたいと願われたのだ。→「あなたの信仰があなたを救った」(48)しかもお褒めの言葉付で!

【適用】自分の願いが満たされれば神への信仰に生きるなくちゃっかり恵だけ得て離れようとする身勝手さが人にはある。主に信仰告白して新しい歩みをしようではないか!

posted by kbcc at 09:39| 礼拝

2018年02月25日

2018年2月25日礼拝説教「失望はあっても絶望はない」ヨハネ5章1-9節音声で聴く。

ヨハネ5:1−9 「失望はあっても絶望はない」 

【序】聖書によれば人間は神の作品(エペソ2:10)というのに、どうして劣等感に陥り、失望落胆し、生きる価値を見失うのか?それは自分に関する悪い情報に支配されているからだ。親が子に「あんたは生きる価値のない子」と言い続けたら子供はまともに育たないしかし今日お語りしたいのは失望落胆し易いに最も素晴らしい情報を語り、希望を実現して下さるキリストについてである。


T.失望のために生きる力をなくしていた

 エルサレム郊外にベテスダ(憐れみの家)と言われる池があった。多くの病人がその回りにいた。その池の水が揺れる時があり真っ先に入る者はどんな病でも癒されるという言伝えがあったからだ(4)。そこに希望をなくした男がいた三つの失望

38年も病の人生を生きねばならないという人生への失望

A環境への失望「池の水が揺れるとき真っ先に入った者だけが癒される」(4)結局みな自分の事しか考えてないのだという孤独感。

B自分なんて愛される価値がないという自分への失望

U.失望から立ち上がらせるキリスト

失望していた彼に声を掛け生きる力を与えて立ち上がらせたお方がいた→キリスト

1.キリストこそ最後まで愛して下さる真の友

この男は38年間も誰にも声を掛けられない、見離され独りぼっちの孤独の中に

いた。→愛されてないという川柳なら笑えるが「沸きました妻より優しい風呂の声」「壁ドンを妻にやったら平手打ち」孤独感ありありだが、孤独は一部の人だけか?孤独というのは自分は内気とか、付き合い下手だからという理由で孤独なのではない。人は最後まで頼りになる友を持っていないという理由で全ての人が孤独なのだ。両親も友人もお金も地位も最後まで頼りにならない→キリストこそ真の「友」!

2.病の癒しを実現して下さる方

病人に「よくなりたいか」は変な言葉である。しかしこの男は直りたいという願いを長い絶望のあまり失っていたという事である。それゆえ先ずキリストは彼に強い願いを喚起されたのである。キリストは病を癒す力あるお方であるがその前に人に癒しの願望を喚起される。聖書を見ると癒しには二種類ある。一つは病そのものの癒し。もう一つは病を超えた心に変えられる癒し―パウロの肉体のトゲの癒しやヘレンケラーに見られる病を超えた生き方。

【適用】「求めよ。そうすれば与えられます」(マタイ7:7)求める前から諦めることのないように!

3.不幸を人の所為にするのを止めなさい「私を入れてくれる人がいない。もう他の人が先に入っていく」(7)そうかも知れないが、それを数えている間は何も起こらない。この思いが自分でも嫌な寝床に縛り付けている。主は「そうだよな、この世はエゴイストだよ」とは言われなかった→「床を取って歩きなさい」(8)「何と無茶な!歩けないから寝てるのに」もう人の所為にするのは充分。新しい力で生きることを求めなさい。人待ち依存の人生と過去から解放される新しい人生が始まる

【証】レーナマリアさんの証…(別紙参照

レーナ・マリアさんの証

かつて長野県で冬季オリンピックが開催された時、スウェーデンから女性歌手が招

かれ善光寺で「アメージング・グレイス」を高らかに歌って感動を与えたのがレー

ナマリアさんだったが彼女を有名にしたのは、当時朝日放送の冠番組だった久米

宏氏の「ニュースステーション」に三度も取材されて来日したからであった。

彼女は生まれた時から両腕がなく、足も片方が半分の長さしかない障害者だった。

しかし自炊生活をしており料理もすれば車の運転もする自立した女性である。全く

ハンディを感じさせない。それで久米氏が尋ねた「僕なんか身体に障害がなくても、

しょっちゅう死にたいなんて考えるのに、レーナさんは大きな障害があっても、

どうしてそんなに明るいんですか?」すると彼女はにっこり笑って答えた。

「そうですね…一つにはキリスト教信仰があるからでしょう。…でも私このハンディが好きなんです」 久米さんが思わず驚きの顔を表した。

彼女は自らの証の中でこう語っている。


「どんなときにも神様は私を見捨てられないし、信じる者に前向きに生きる力を与えて下さいます。」と。

posted by kbcc at 11:47| 礼拝