2018年06月11日

2018年6月10日礼拝メッセージ「祟りはあるのか」ルカ13章1-5節 音声で聴く。


ルカ13:1−5         「祟りはあるのか」          18/6.10

【序】日本は非常に祟りを恐れる国である。縁起を担ぐのも冠婚葬祭の日取りを選ぶのも病院で4号室、9号室を作らないのも根には祟りを恐れる思想がある。又弱みに付け込んでお金を求める悪徳宗教もある。ある人が不幸が重なり霊能者に「悪い霊が憑りついている。お祓いをしてあげるから○○万円持ってきなさい」と言われたそうだ。これは一種の脅しだ。この様に悪い事があった場合、何かの祟り、因果応報とか、或いはクリスチャンでも自分は罪深いからこんな事が起こったのではないか、と悩む方もおられる。いったい祟りはあるのか?聖書のメッセージを聞いて頂きたいと思う。


T.祟り思想の実態

総督ピラトがガリラヤ人を殺して、その血を祭壇の生贄に混ぜた事件で、殺された人々は他の人より罪深かったのではないか()、また塔が倒れて亡くなった人たちは他の人より罪深かったのではないか()、と当時の人々は考えた。こういう思想は昔も今もイスラエルにも日本にも根強く残っている。     

         【例】1.三浦綾子さんはカリエスで療養中ある宗教の伝道師に「肺結核と癩病は天刑病で神が与えた

              罰、即ちハイと素直に返事しなかったから。顔にある痣は前世で夫の顔を踏みつけたから」

と言われ非常に心を傷つけられた。

    2.横田めぐみさんが拉致された時、母早紀江さんに宗教の勧誘「子供は親の鏡。子は親の全てを表す。新聞を騒がす事件が起きるのは、先祖の因果応報」と責められ涙す…

U.主イエスの答え

「そうではない」()「そうではない」()と二度も強く否定し、祟り思想、因果応報思想を一蹴された。聖書が祟りを否定する二つの理由:

1.   十字架で主イエス御自身が人類の罪の呪いを一切を引き受けて下さった

確かに罪は裁かれねばならない。しかし何度も罪を犯し続ける弱さを持つ人間のためにキリスト御自身がその裁きと呪いを私たちに代わって受けてくださった。十字架はそのためである→ガラテヤ3:13 だから呪い祟りは終わったのだ!

 2.神が災いを祝福に変えてくださる

ヨハネ9:1-3「神の業が現れる為」=神を信じて生きる素晴らしさがその人に現れる、との意味。主イエスは、自分には何の責任もない生来の盲目の人に、因果応報の思想を完全否定されただけではなく、かえって、そのハンディを通して神の業が現れる道を示された。∴【証】新垣勉さん…生まれて間もなく助産婦の間違いで家畜に使う点眼薬を投与され失明、更に1歳の時、ラテン系アメリカ人の父と日本人の母離婚。母は彼を祖母に預けて再婚。大きくなったら両親を殺して自分も死ぬと決意する。唯一の慰めは歌うこと。14歳の時ラジオから流れてくる讃美歌に惹かれも教会に行き牧師に思いのたけを語る。やがて信仰を持ち、新しく生き始め盲学校、西南大学に学ぶ。そこで世界的ボイストレーナーのバランドーニ師に「あなたは日本人離れした天性の明るい声をもっている、きっとお父さんのおかげだね、感謝すべきだよ」憎しみが消え去った瞬間だった。

V.だから悔い改めよ(3,5)

「悔い改め」で誤解があるのは「悪い行い」を改めると理解されている事で、それは聖書では「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」であり、「悔い改め」とは思いを変えること

【適用】→神無しの考えから神がおられる考えに。キリストは単なる宗教家という考えから神の御子救い主という考えに。自分には罪はないという考えから自分も救われねばならない罪人であるという考えに。禍は祟りだという考えから神の御業に変えられるという考えに変えられていく事である。


posted by kbcc at 14:31| 礼拝

2018年06月08日

2018年6月3日礼拝メッセージ「気をもむ日々からの解放」ルカ12章22-30節 音声で聴く。

ルカ12:22−30     「気をもむ日々からの解放」      18.6.3

【序】アバコというキリスト教団体のアンケートで「聖書の中で最も好きな言葉は?」に「明日を思い煩うな」が第1位だったそうだ。裏を返せば、それほど思い煩う生き方に支配されているという事だ。勿論誰も好んで気をもむ人はいない。できれば気をもまない日々を送りたい。でも現実は気をもんでしまう。そういう私たちなので、今日の御言葉をしっかり受け止めたい。


T.原語で「気をもむ」とはどんな意味か

 「気をもむ」は原語で「引っ張られる」である。あの事、この事で問題に引っ張られてしまうことである。自分が問題を引っ張るのはいいのだが、逆なのだ。問題に自分が引っ張られてしまう。すると自分がフラフラして安定を失い、落ち着かなくなってしまう訳だ。このフラフラする自分の状態は心にも体にも良くない。


U.気をもまない日々を生きるために知るべき事は何か

1.気をもんでも問題は解決しない

「心配したからと言って、自分の命を少しでも延ばすことができますか」(25

とキリストは言われた。私たちは、あの事この事、特に健康のことを心配するわけだが、今まで多くの病者と関わってきたが、深く感じる実感は、人は病気で死ぬのではない、人は寿命で死ぬのだ。神の時が来ないなら、どんなに重い病でも死なないし、神の時が来たらどんなに健康を誇っていても死ぬ、という事。思い煩っても寿命を延ばせない。神の時までは人は生きるし、信仰者なら延命より永遠の命を与えられている。これは幸いである!


2.最善の計画をされる神がおられる

「どんなによくしてくださることでしょう」(28)(「よく」=最善の意味。)

【例証】・ヨセフの生涯―兄の虐待や冤罪での牢獄が未来の祝福の計らいに至るとは!

・モーセの生涯―王子から転落人生で一介の羊飼いになり無意味に思えた荒野の生活がやがて民を荒野に導く時の前もっての学習体験であったとは!

ヨセフの牢獄自体は最悪だったが最善だった。またモーセの荒野生活も最悪だったが最善だった。神が導かれる人生は最高の人生ではないかもしれないが最善の人生なのだ。神の最善を信じて生きて行こう!


3.神はあなたの必要を知っておられる(30)

「あなたがたの父はそれがあなたがたに必要であることを知っておられます」(30だから心配するな。心配よりも信頼が大事。

【適用】孫の遊ぶジクソーパズル…端から見ていて答えは大人の私には直ぐにわかる。孫はまごまごして思案顔。神と人間の関係も似ている。問題に直面している人間には答えが分からず気をもむのだが、それを見ている神には答えが分かる。→「わたしのしている事は今はあなたにはわからないが後でわかるようになります」(ヨハネ13:7

posted by kbcc at 10:34| 礼拝

2018年05月28日

2018年5月27日礼拝メッセージ「大丈夫!の福音」-涙の谷を過ぎるとも-詩篇84章5-7節 音声で聴く。

詩篇84:5―7     「大丈夫!の福音」-涙の谷を過ぎるともー     18/5.27

【序】今日のような主題を付けると「そんなこと言ったって、行きたい学校や会社にも行けず、病や挫折もしたし、大丈夫!なんて言えないのではないか?と思われるかもしれない。でも「涙の谷を通るとも大丈夫」なのだという聖書のメッセージお伝えしたい。


T.涙の谷を通る時に避けるべき生き方

涙の谷を歩んでいるとき、人は色々と間違った理由付けを聞かされる。

「悪い星のもとに生まれたから」「過去の失敗の所為でそうなった」とか…それで心が暗くなって前向きに生きれない思いになり易い。でも以下の生き方は避けるべき!

1.良かった探しができなくなること

悲しみ経験が大きいから、それを受容できない時がある。しかし、どんな辛い経験にも感謝すべき事がある筈だ。

    【例】長野県の湯治場「無くなったものを数えるな。有るものを憶えよ」

2.当たらぬ言い訳に終始する生き方

イソップに出てくる狐の様に、手の届かない葡萄を「あれは酸っぱい葡萄」と決めつけて、取る努力をしない生き方。しかし言い訳ばかりでは正しい自己反省も新しい力も得られない。

 3.恨みで生きる生き方

   この不幸をもたらしたのはあの人、環境、神様にある、と恨んで生きている。恨みからは何ものも良いものは生まれない。

U.涙の谷を通る本当の理由

では私たちが涙の谷を通る本当の理由を聖書は語る。

「そこを泉の湧くところとします」(6)

「そこを」=涙の谷そのもの。「そこを泉の湧くところとします」

つまり、あなたが涙の谷を通った或いは通っている理由は「泉の湧く生涯への招き」だったのだ。神の御心は、涙が癒されるだけではなく、その経験を通して、あなたを通して周りの人に泉が湧き上がる様な経験に導く事にある。

V.泉が湧く生涯の秘訣

ではどうしたらそんな泉の湧く生涯へて導かれる事ができるのか?それは悲しみにも負けないという条件だろうか?或いはタフで不屈の精神の持ち主が条件だろうか?違うのだ!聖書は一つだけその秘訣を教えている→「何と幸いなことでしょう。その力があなたにあり、その力があなた(神)にありその心がシオンへの大路にある人」(5)

「シオン」とは神を礼拝する神殿があった丘のこと。つまり特別な人に泉が湧くのではなく、悲しみがあるかもしれないが、それでもそんな中でも神への礼拝の道を淡々と歩む人の中に泉が湧く事を約束しているのだ。

posted by kbcc at 19:12| 礼拝