2018年01月29日

2018年1月28日礼拝メッセージ「まじめなのに喜びがない人」ルカ15章25−32節音声で聴く。

ルカ15:25−34      「まじめなのに喜びがない人」      18.1.28

【序】真面目であることは良いことだ。でもまじめなのに喜びがないというのは残念な生き方である。そして現代、そのような人が多いのではないかと思う。その原因は何なのかということを、今日聖書に出てくる兄息子の姿から考えたい。


T.物語の背景(11-24)

兄息子を正しく理解するためには弟息子の話を知った上でないとわからない。この話はいきなり弟息子が父に「財産をくれ」(12)とあるが、これは当時絶対言ってはならない父との絶縁の言葉!それ程、弟息子は愚れた息子。散々家族を困らせ、仕事も中途半端で遊び好き。それさえ長続きしない。放蕩三昧の後、金が底をつき、友達にも見捨てられ、一人ぼっち!そんな時、我に返り父を思い出す。プライドも捨てて帰還し、父に謝る。父は喜んで走り迎え弟息子を歓迎→宴会!となる。ここまでの理解をした上で兄の話になる。


U.兄息子に見られる人間の姿

兄は弟とは違って自分も家出を!はない。弟の分まで働く律儀者。世間は言う「あの家がもっ

てるのは御長男のお陰。偉いなあ」誠に品行方正、まじめで通っている。しかし弟帰還の宴会で一

気に怒りが爆発(28)!そして彼の言葉の中に意外な本音が噴出。

1.我慢だけのがんばり

「長年あなたに仕え、戒めを破った事は一度もありません」(29a兄は正しくて立派だが、その実29bで語る→「だのに楽しめといって子山羊一匹を下さったことはありません」(29b) 本当は遊びたくてしょうがない。しかし遊ばない。兄は恥をかく事が一番怖い。体面を取り繕う道徳主義。父に仕えて立派に仕事をしているが喜びなし、満足なし。ただ我慢していたのだ。この我慢だけでがんばっているのはいつか爆発してしまう。

2.愛がないということ

「遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰ってきたあなたの息子(30)

「弟」なのに「あなたの息子」と言う。関係を切った冷たい心!どんなに立派で仕事ができ正義でも愛がないというのは問題を解決しない。誰かの為に頑張るのは立派だが「私は正しい」と頑張るのは相手が間違っていると発信しており、それが無限に人を傷つけている。それに気がつかない。中途半端に正しい事は恐ろしい事!

【例】太宰治「優秀の優という字は優しいとも読む。真に優秀な人は優しい人だ。また人偏に憂いと書くように優しい人は必ず人の憂いを知っている。中途半端に優れている人が人を傷つける、その事に気づかない」

3.報われていることに気がつかない

 兄は「一匹ももらっていない」(29)と言うが「父は身代を二人に分けてやった」(12)既に残りは自分の物(31)。ほしければ食べればいいのに報われていないと誤解する。

では「報い」とは何か?→正しいことができるということ自体で充分報われている。良い事ができる、それ故信頼もされるという事自体、ちゃんと報いを受けている。

【適用】兄タイプの人は優秀という事で十分報いを受けている。信用を得るしお金も貯まる。教会には概して兄タイプの人が集まる。兄の優秀さを更に磨きをかけて更に良い人間になろうとする。自分でやれるのであれば、やったらよい。しかしやればやる程やれない自分に気づきそこから罪が分かり、救いの必要が分かってくる。十字架の必要が分かってくる。 


posted by kbcc at 13:37| 礼拝

2018年01月22日

2018年1月21日礼拝メッセージ「泣かなくてもよい」ルカ7章11−17節音声で聴く。

ルカ7:11−17         「泣かなくてよい」        18.1.21

【序】中世の画家たちが描くキリストの顔はなぜか似ている。それには言い伝えがある。キリストが十字架を負ってゴルゴダまでの道を歩かれた時に、頭にかぶせられた茨の冠のトゲで額から出血し、顔が血で染まった時、ベロニカという敬虔な女性が自分のベールでキリストの顔に当てて血を拭った。そのベールについた血痕がキリストの聖画の元になったらしい。キリストのお顔が実際どのようなのかは知りたいところだが、今日の箇所にはルックス以上にキリストの素晴らしさが表されている。


T.キリストの心

キリストがナインという町に行かれた時「大勢の人の群れが一緒に行った」(11)とある。町は喜びに溢れキリストを大勢で迎えた。だがその中に悲しみに涙する人がいた。するとキリストはその喜びの輪から離れ、悲しむ人のところに近づかれる。それは「やもめとなった母親の一人息子が死んで担ぎ出されていた」(12)からである。この女性は、夫を先に失い、頼みの綱であるひとり息子「青年」(14,20)

を失うという悲しみに潰されていたのである。 

【適用】この世はまじめに生きている人が報われる世界であってほしいが、なぜか不幸が襲う。逆にずるい人がスイスイ行く場合もある。そのような人生の矛盾にやり場のない悲しみを覚える時がある。しかし知ってほしいのは、キリストは歓喜の中から離れて、その悲しむ人を知り寄り添うお方であるという事だ!


U.キリストの言葉

「主はその母親を見てかわいそうに思い、『泣かなくてもよい』と言われた」(13)

キリストは人生の矛盾に嘆き悲しむ者に深い同情心を持つと共に驚くべき言葉を語られる。「泣かなくてもよい」。人もまた励ましの意味で「泣かないで」という事もある。しかしこの「泣かなくてもよい」は違う。泣く原因をストップさせる力ある言葉なのだ。人間には無力を感じさせる無数の問題がある。心の怒りや愚痴や妬みを消せない無力、人間関係の無力、仕事や人生の無力。それに対してキリストは力ある聖書の言葉によってあなたの問題をストップさせる力をお持ちである。

【証】「聖書と私」(三浦綾子)―人間の心って余程の事がないと変わらないのに!


V.キリストの力

「青年よ。あなたに言う、起きなさい…するとその死人は起き上がった」(14,15)

キリストは多くの奇跡を行われたが、この奇跡は癒される側の信仰の言及はない。

有るのはキリストの愛が動いて奇跡を行われたという事である。ここに慰めがある。

私達は「私は信仰が薄いから、奇跡は起こらないのだ」と思うが、この話はこちら

の信仰の有無以上にキリストの愛が先行しているのだ。この奇跡の話は我々の信仰

の強弱に関わらずなされる神の御業があることに励まされ神を仰いで進んでいこう

ではないか!

posted by kbcc at 11:36| 礼拝

2018年01月15日

2018年1月14日礼拝メッセージ「ハリチリ合戦」ルカ6章41、42節音声で聴く。


ルカ6:41,42        「ハリチリ合戦」          18.1.14

【序】顔にある目は自分の顔は見えないが相手の顔はすぐ分かる。同様に欠点も自分よりも他人の方が見え易い。果たして欠点かどうかも定かではないのに、直ぐに「あんたは○○」と批判する。すると相手も「キミも△△」とハリチリ合戦が展開される。どうしたものか…だからといって全く言わないのもストレスだ。神の御心を聞こう。


T.相手には「塵」で、自分には「梁」である意味

聖書的に言うなら人間は等しく罪人であるので、自分の方が必ず家の横柱のような大きな梁をもっているというのではない。どちらも塵なのだが、相手の塵を目ざとく見つけ、叱責し、時に怒りを爆発させる。或いは怒りを心にしまいこんでいるような場合、自分の目には塵から始まっていても大きな梁のように増大してしまう故の表現だ。だから相手に対する批判的な思いや怒りを持ち続ける事は罪を増大させることになる。


U.では相手の中の塵に気づいた時にどうしたらいいのか?

塵が怒りによって梁のように大きくなる現実を知る時、成すべき事をキリストは教えられた。それは「先ず自分の目から梁を取り除きなさい」(42a)

つまり、相手を責める前に先ず自分の吟味から始めよ、である。とかく相手の欠点は自分の欠点よりも早く気付いてしまう。だからといって自分の欠点がない訳ではないのだ。相手の欠点に気づいた時、自分はどうなのかと自己吟味から始めるべきなのである。これを怠ると間違いを犯しやすい。

【例】かつて滋賀県の大火事で…警察は放火犯として5才と6才の子供とし、児童相談所に通告処分とし捜査を打ち切った。その後はいじめの連続。子供の家族はお詫びにと杉百本を市に出したが、県が建てた住宅に入ることを断られ、納屋で家族は身を寄せ合って過ごさねばならなかった。救援米も二回を一回に削られ、子供が小学校に入ると「家を返せ」と廊下を引きづられ、運動会で一等を取ると「遠慮しろ」と怒鳴られ、終に一人の子供の母は寝込み「この子が不憫で」と繰り返しながら死んでいった。もうひと家族はいたたまれず転居…。7年後ある窃盗犯が刑務所でその火事の放火を自供した!…いったいこの子供たちの心の傷を誰が償ってくれるだろうか! 間違った裁き合いがもたらした余りに痛ましい出来事ではないか!

「聞くには早く、語るには遅く、怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現するものではありません」(ヤコブ1:19,20を肝に銘ずべき。


V.相手の塵を取り除く仕方

現代の様に人間関係が希薄な時代は、とかく相手の欠点に気づいてもだんまりで

関わろうとしないか、逆に切れて破壊的な行動に出るかである。聖書的な愛の態度を祈り求めるべきである。キリストは「…そうしてこそ兄弟の目の塵がはっきり見えて取り除くことができる」(42:b)と言われた。またガラテヤ6:1にも「柔和な心で正してあげなさい」とある。単に相手を裁いて罪に定めるのではなく、愛の心から自分も同じ重荷を負うつもりで愛の忠告をするのは尊い事である。大切なのは兄弟愛から出た言葉であるかどうかだ。これが聖書を学ぶ者の間で行われるなら麗しい教会、麗しい家庭、麗しい人間家系が結ばれるであろう。

posted by kbcc at 13:24| 礼拝