2019年10月06日

2019年10月6日礼拝メッセージ「人の時と神の時」


ヨハネ7:6、30       「人の時と神の時」       19/10.6【序】自分の人生を振り返って「全て自分の思い通りになってきた」という方はおられるだろうか?ほとんどの方がそうではないだろう。いやむしろこんな事が起こるなんて想像さえしなかったという方が多いのではないか?私も自分がクリスチャンになり、しかも牧師になるなんて全く自分の人生設計にはなかった事だった。これを考えると自分の人生設計や時とは異なる計画と時間で動かす誰かがおられるという事だ。今日の聖書にそれが示されており、またその時を知ると安心感も生まれてくることをお伝えしたい。

T.人生には「人の時」と「神の時」がある
 福音書記者は「イエスを捕らえようとしたが誰もイエスに手をかけた者はいなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである」(30)と語る。
ここで分かることは、キリストを捕えようと動く「人の時」と、キリストが十字架にかかって人類に救いを与える為に兵士たちに捉えられる「神の時」の二つがあるという事である。聖書によれば「時」には二種類ある。言えることは世には悪さえ企てる人や時があるが、最終的に神のわざが現れるような事には至らない。真に事を成らせるのは「神の時」である。
 
U.「人の時」を恐れることはない
 主を捕らえようとする悪の時が働いたが、事は成らなかった。(30) 
【適用】私達は自分に悪い事が起こる時を思って恐れる。重い病気になると死ぬのではないかと恐れるが、どんなに重い病でも神の時が来ないなら死なないし、神の時が来れば健康でも死ぬのである。だから「神の時」が来ないなら、人が悪を企てる事はあってもそれは「人の時」であり、事は起こらない。しかし現実に悪が起こる時がある。もし悪が起こる事があっても「神の時」ならば、神の支配の中でしか動かず、益に変えられる→「あなたがたは悪を計りましたが、神はそれを良いことの計らいとされました」(創世記50:20)

V.「神の時」こそ最善の時である
 主は神の時に従って慎重に行動されたが(6)、人は「神の時」を待てないで早まって行動して失敗する。しかし有難い事に最終的に神が祝福を実現して下さる。
モーセの例:40歳の時同胞の民が奴隷として虐待されるのを見て救出行動に出るが(「人の時」)殺人までして荒野に逃亡。そこで失意の生活。人間的には富も能力もなくなり同胞の民を助ける力もなくなったが、40年後神は「神の時」が来たとして動かされる。モーセは何度も拒絶したがようやく重い腰を上げて行動する。すると自分にはない不思議な力を与えられ民を導く。更に民の不信仰で40年の荒野の生活をしなければならなくなるが、ここでかつて無意味と思えた荒野での羊飼いの40年が功を奏する。荒野を知った指導者でなければ民を導けないからだ。神が人を動かすときは今だけでなく無意味と思えた失敗と思われた過去も全部用いて最善の「神の時」で導かれるのだ。信じて進もう!
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2019年09月29日

2019年9月29日礼拝メッセージ 「計り知れない恵み」第一テモテ6: 7,8

Tテモ6:7-8       「計り知れない恵み」    


【導入】酸素ボンベ1ℓ=200円。1日分(1,600ℓ)購入すると32万円になる。無意識のうちに、様々な恵みが与えられている。聖書は、私たちの覆われた目を開き、見えない世界を見せてくれる。パウロの言葉から学ぼう。


T満足・不満足は自分で決定できる


私たちは普段、感謝よりも不満の方が多いかもしれない…。物事が順調でなければ、感謝はできないだろうか?パウロは言う。衣食があれば、それで満足すべきです。(8)」私たちは衣食住に恵まれているが、海外には、食べるにも事欠く人々がいる。けれども、彼らは厳しい現実の中でも笑顔がある。私たちと何が違うのか?

「もっと多くを獲得すれば幸せになれる」という考え方はないか。欲しいものを手に入れると満足するが、必要最低限が満たされただけでは満足しないのだ。ある程度の収入、財産etc.を標準と見なし、不足を数え上げる。一方、貧しくても笑顔の人々は、環境を受け入れている。不便も甘んじて受け、与えられたものを満足している。


【適用】問題は、私たちの環境にあるのではなく“考え方”にある。満足は“所有”によって決まるのではない。与えられた状況をどう捉えるかだ!それは、自分で決定できる。満足か不満かを選ぶのは、私たち自身だ!


U.“当たり前”は当たり前ではない


聖書は「衣食があれば、満足すべきです」と、衣食だけでも満足できる生き方があることを教えている。なぜ、満足できるのか。「私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。(7)」

生来、私たちは何も持っていなかったことを覚えなければならない。誕生さえ自分の意志によるのではない。

生まれる時代も、場所も、性別も、神が全てを決定されたのだ!今、持っているものも、与えられたに過ぎない。また、私たちは命の長さも、自分で決定できない。生きている間に、カネ、地位、能力、人間関係、家庭etc.を身につける。しかし、どんな優れた人物であれ、全てを置いて死ななければならない。


【証】先日、私は原付で転倒した。出血したが、すり傷で済んだ。治療を受けながら、「主が助けて下さった。この程度で済んだ」と感謝で満たされた!健康も当たり前ではない。恵みに目が開かれる時、喜びが湧いてくる!

【例】『もし世界が100人の村だったら』(2001年)→当時63億人の人口を100人の村に縮めると…!?


【適用】「持っている」のが当たり前ではない。「持っていない」のが当たり前であり、聖書が示す正しい視点だ。

これが分かると、小さな事にも感謝の思いが溢れる。好ましくない環境でも喜ぶことができる!


V持っているものを見直そう


日常生活に戻ると、感謝できないという方へ。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい。(使徒3:6)」御名=神との個人的な関係。→全てを与えられたに等しい。聖書の約束は全てあなたのものだから!(マタ6:33、ロマ8:28、詩50:15 etc.


【適用】私たちは既に、計り知れない恵みが与えられている。それを思い起こす時、感謝と喜びに満たされる!

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2019年09月23日

2019年9月22日礼拝メッセージ「置かれた所で生きる」 ルカ 13: 6 ‐ 9音声で聴く。

ルカ13:6−9  「置かれた所で生きる」  19/9.22
【序】私達には置かれた環境がある。家庭、教会、職場、学校…。大事なものだが、その置かれた環境に確信が持てなくて、不安になる場合がある。神の御心を聞こう。

T.合う、合わないが決定の基準とは限らない
普通、葡萄園には葡萄が植えられている筈だが、ここでは「葡萄園」に「無花果」の木が」植えられている(6)。これはイスラエルでも相応しいわけではない。何かの不都合で、又はやむにやまれずこういう形がとられた様だ。これは大事な真理でもある。つまり人生には、合う、合わないで判断するのではなく、置かれた所で腹を決めて生きる事が大切だという事。
【適用】夫婦というのは不思議。結婚した時はピタッと合うと思って結婚するが、5年も経つと合わないと感じることが多いのではないか。ご夫婦に聞くと「私、主人とは性格が全然違います」という奥さんが多い。しかし大切なのは、合う、合わない、ではなく、導かれた所で生きるという事。

U.なぜ置かれた所で生きる事が大切なのか
その無花果を置いたのは「主人」!同じ様に、あなたをそこに導かれたのは神なのだ。人生には人間的には解決不可能な問題があり、神をそこに受け止めてこそ初めて進んでいける世界がある。生きるとか死ぬとか愛とか試練とか…。
なぜ神を受け入れる必要があるのか…それは人生の目的を知るのには人間の作者に聞かなければわからない。では人生の目的とは何か?子供ラジオ相談で…
仕事?成果?幸せ?→マタイ22:36-40―神と人を愛する事が目的!
【適用】あなたの環境は最高ではないかもしれない。しかし最高を求める祈りよりも、その環境の中で神と人を愛する力を得て進むことが大切なのだ。
 
V.実を結ばないのを嘆くのをやめて、実を結ぶ神の計画を信じなさい
この無花果は3年実がつかないために「切り倒す」(7)という結論を出すところだったが、ここに別の考えを持つ人がいた!→番人(8)この「番人」(文語訳「園丁」=庭師。この庭師とは無花果や人間のことを一番よく知っているキリスト。この方には木を切り倒すことなど頭にないのだ!あくまで実を結ぶ計画なのだ。「木の回りを掘って肥やしをやってもう一年待ってみましょう」(8)
【適用】私達も同じ事を繰り返すのではなく、「実を結ぶ」神の計画を信じいろいろと「工夫」をして取り組んでみる事が大切である。しかし大事なことは
実を結ぶことばかりを焦って嘆いたり苛立つのではなく、最高の目的―神と人を愛するという目的を少しでも果たすことを目的に生きていこう。そのうち実は結ぶ!
【結び】ペテロ徹夜の漁で一匹の魚もなし。キリストに「もう一度網を打ってみなさい」と言われて従ったところ→大漁!
posted by kbcc at 09:22 | TrackBack(0) | 礼拝