2018年11月20日

2018年11月18日礼拝メッセージ 「人間ミナ平等」ルカ19章12−23節音声で聴く。

ルカ19:11−23        「人間ミナ平等」         18.11.18

【序】地球に73億もの人が住んでいるが、二人と同じ人はいない。私達は個性的にユニークに造られている。しかし私達はとかく人と比較して能力不足だとか、あれがあればと嘆き自信喪失や劣等感に悩まされている。今日のメッセージを通して励ましを得たいと思う。


T.ルカ伝とマタイ伝の違いの意味

この譬え話はマタイ25章でも似た話が出てくる。ただ違うのは預けられたものがそれぞれ5タラント、2タラント、1タラントと違うのに対して、ルカ伝では与えられたものは等しくみな1ミナである。この違いはどういう事か?

○マタイ伝―個性も含めそれぞれ能力が異なる姿を現している。例:勉強が得意な人

  と苦手な人、芸術が得意な人と苦手な人、運動が得意な人苦手な人。それぞれに差

があるのは現実。マタイ伝ではその預けられたものの違いを端的に表している。

○ルカ伝―みな1ミナである。これは人間としては等しく価値が同じであることが

  強調されている。聖書で言えば大祭司であれ、律法学者であれ、取税人であれ、

  差別された癩病人であれ盲人であれ皆等しい価値をもっている。

※唯この世では能力が有る者の方がより価値がある人間であるかの様に扱われ易い。又価値が平等といっても何をもってそう言えるのかを知る必要がある。


U.神の前に自分の価値を見出す場所はどこか

教会で皆さんが大事にしてくれる、それもあるだろう。又自分が教会で活躍できる奉仕がある、それもあるかも知れない。しかしそれは最大の自分の価値を見出す場所ではない。自分の価値を最大に見出す場所、それは十字架である―神の御子があなたの為なら身代わりに罪の裁きを受けてもこの命は惜しくはないとして十字架で死んでくださる程、あなたは愛の対象になっている。十字架こそあなたの最高の価値を見出す場所なのだ。→「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(Tヨハネ4:10

V.人の働きに対する神の評価は何か

「忠実さ」こそ神の評価基準! この世では幾ら成績を上げたか、幾ら儲けたか、が評価されるが→聖書では「儲けた額よりも忠実だったかどうか」である。

【適用】私たちは人と比較して「これがないとか、あれが有ったら」と悔やみ易い。しかし星野富弘氏が11月5日に福音功労章を授与されたがそのスピーチで「私は身体の機能を失って、できることは全てなくなったと思っていたが、神様は私に素晴らしいものを与えて下さった。口に筆を加えて絵をかくなんて想像さえしなかった。私の描いたものを目にして下さった方が少しでも神様の事を感じて下さったらこんな嬉しいことはありません」

「競争は足の早い人のものではなく…全ての人が時と機会に出会うから」(伝道9:11だから自分は才能がないとか自分は恵まれない、と嘆かないで、チャンスは等しく与えられていることを感謝して召されるまで進んで頂きたい。

posted by kbcc at 10:36| 礼拝

2018年11月12日

2018年11月11日礼拝メッセージ 「汝自身を知れ」ルカ18章9−14節音声で聴く。

ルカ18:9−14        「汝自身を知れ」         18.11.11

【序】「汝自身を知れ」とはソクラテスの言葉であるが、自分を正しく知るのは難しい。日本は「お客様は神様です」という文化なので、自己評価の基準は人である。しかし人が相手では自己評価もコロコロ変わるし、人を恐れてノイローゼになる場合もある。大切なのは揺るがない神の御前の自己評価である。二人の人物から学びたい。

  

T.自分を義とする者は神に義とされない

パリサイ人は自分の善行を数え上げる(11,12)が、嘘ではないだろうが神に義とはされなかった(14) 聖歌に「数えてみよ主の恵」はあるが、「数えて見よ自分の善行」は無い。こんな祈りをする人は余りいないがよく読むと「心の中で祈った」(11)とある。するとこれは他人事ではない。私達も心の中で思うところがあるからだ。

【例】「神様。私は礼拝も休まず、祈りも欠かさず、奉仕もできるだけしてきました、つきましては○○の恵みをお願いします」…。あるいは逆に「これだけあなたのために頑張ってきたのに…何故にこんな禍が?」

自分の善行で神の恵を引き出そうとしたり、逆に自分の真面目さで報われないと文句が出てくる

私たちが神に聞かれる祈りの根拠は、私たちの善行ではなく、ただ神の恵みである→「行いによらず…信仰による」(エペソ2:8,9


U.神の前に謙虚に罪を認める者は神に義とされる

取税人は謙虚に「こんな罪人の私を憐れんでください」(13と神に祈った。

1.原罪を謙虚に認める

多くのまじめな日本人は「罪人」といわれる事に抵抗を覚える。∵「罪」=盗み、殺人をイメージする。これは刑法上の罪。しかし聖書の罪は神との関係概念。

罪とは=神によって造られた人間が神との関係を持たない事→原罪という。

つまり子供が自分を産んでくれた親と口を利かない、親を無視、認めないとい

う関係が壊れた状態は最大の悲しみであり罪であろう。

【証】新島襄が禁書であった聖書を初めて読んだ時の回心…最大の罪は真の神を認めない事を知った。

2.日常の罪(言葉、行い)を言い訳無しに認める。

この取税人は一切言い訳をしていない。私たちは言い訳しがちである。エデンの園のアダムもエバも言い訳をした。(「自分も悪いかも知れないが相手はもっと悪い」は言うべきではないのだ。


V.神の前に罪を認めるとは具体的にどういう事か

聖書を読む事→聖書を読んで恥ずかしく思う個所が自分の罪である。

 説教も「この話はあの人が聞くべき、これはあの人が反省すべき事」ではなく先ず自分に対して聞くのが神の言葉に対する姿勢である。

【証】賛美に引かれて教会に通い始めた婦人、お説教にも感動したが帰宅すると夫に皮肉を言う。「私はいいけどアンタこそ教会で懺悔すべきよ…」やがてある日自分の罪を示され夫への愚痴がぴたりと止んだ。すると夫が教会に行き救われた。

posted by kbcc at 14:17| 礼拝

2018年11月06日

2018年11月4日礼拝メッセージ 「キリストの透視力」ルカ19章29−35節音声で聴く。

ルカ19:29−35        「キリストの透視力」       18.11.4

【序】私は55年間聖書を読んでいるが今でも「聖書は凄い!」と思わせるものがある。2千年以上も前に書かれた本なのに、現代の問題に適格に答えを示すその洞察に驚かされるし、更に主イエスというお方自身。奇跡も勿論の事だが、今日の箇所にはキリストの驚くべき透視―見通す力が記されている。それはいったいどのような透視なのか、またそれは私達に何を意味しているのか伝えたい。


T.キリストの透視は:場所を超える透視である

キリストはエルサレム入場の際、ロバの子に乗って入場されたが、その時そのロバは隣村に繋がれていたが、それを透視して弟子達を遣わされた。→2930

私達の視力は周りにあるものしか見えない。目の前に障害物や遮るものがあれば、その向こうは見えないが、キリストの透視は見えないはずの隣村に繋がれているロバの子を見通せるのだ。

【適用】キリストの場所を超える透視が私たちに意味する事:

あなたの家族(親や子)で遠くに離れて生活している人がおられるだろうか?いつも見れないというのは時に心配をもたらす。しかしあなたが遠く離れた家族を見れなくても、神はその家族をも目の前に見ておられ、しかも守られるのだ。

【証】インディアン酋長の15歳の息子が酋長になるための訓練…夜中にたった一人で弓を持たせて狼の遠吠えが聞こえる荒野に一晩中過ごさせる。その恐怖に打ち勝つ者でなければ酋長にはなれない。その不安と恐れの中一睡もできずに夜を過ごすのだが、太陽が昇り始める時、その少年と離れた木の陰で弓をつがえ、少年に獣が襲いかかるなら矢を放とうと身構えている老人の姿があるという。神は同じ様にあなたを見守られる!


U.キリストの透視は:時間を超える透視である

私達が分かるのは過去と現在で、未来は解らない。しかしキリストの透視は時間を超えて、未来がどうなるかを予知できる→3132

【適用】キリストの時間を超えて予知できる透視が私達に意味する事:

あなたは自分の未来がどうなっていくか、時に不安を感じるだろう。しかし残念ながら人間には未来が分からない。しかし神は未来を現在のように透視できるお方である。その神があなたの未来についてこう言われる→エレミヤ29:11

信仰とは神の約束の祝福を掴む手のようなものである。

【例】中学時、駅前で偽のパーカー万年筆を掴まされた苦い話→良い物を掴もう!


V.キリストの透視は:心の中を見ぬく透視である

 私達は相手がどんな言葉を出すか、心の中は解らない。しかしキリストの透視はどんな言葉を発するかという心の中さえ見通せるお方である。詩篇139:4

【証】神学校のチャペルでのマックスウエル先生の証…幼い時は母が常に「神様が見ておられる」と言われるのが怖かった。いっそのこと神を知らされなかった方が楽だと思った。しかし大人になってこの母の言葉が慰めに変わった。なぜなら人にどう説明しても理解してもらえない時、神は知ってくださっている、と思う事は深い慰めだったと。

posted by kbcc at 16:26| 礼拝