2018年02月04日

2018年2月4日礼拝メッセージ「人生の嵐に悩む時」ルカ8章22−25節音声で聴く。

ルカ8:22−25「人生の嵐に悩む時18.2.4

【序】人生には予期しない嵐がやってくる。家族の事、人間関係の事、健康面の事、職場の事、経済の事…その時慌てふためいてしまう私たちだが、そんな中で一緒にいて鎮めるお方を見いだせたら、どんな心強いか。そんな方がおられる!伝えたい。


T.知恵や経験が通用しない人生の嵐がある

弟子達がキリストと舟でリラヤ湖の向こう岸に渡ろうとしてい予期しない

突風が吹きおろしてきて忽ち湖は嵐になり「水をかぶって危険になった」(23)

弟子達はこの湖で育った根っからの漁師だったが慌てふためき「先生、先生」(24)

と二度も主を呼ぶ程のパニック状態!正に知恵も経験も通用しなかったのだ。

【適用】私達の人生にも人間の力も通用しない人生の嵐がある。家族や健康、仕事や経済…更には、心の中不安恐れ怒り憎しみの嵐を一つも鎮められないではないか。自分に頼らない事だ!


U.人生の嵐に必要なものは何か

キリストが弟子達に「あなたがたの信仰はどこにあるのです」(25)と言われた様に、人生の嵐に必要なのは「神への信仰」である。実はなぜ私たちが人生の嵐に会うかという理由がここにある。人生の嵐には知恵も経験も通用しない中でそのに必要なのは嵐を支配し万事えるへの信仰なのだという事を知るためにあるキリストが弟子達にこの旅をさせたのも(22)、この信仰を持ってほしいとの願いがあったからだ。ではもう少し掘り下げて神への信仰について考えると:

1.自分の将来を小さな判断で決めない

弟子達「溺れて死にそうです」(8:24)と言生き死には神の手の中にあるのに、小さな判断で自分の将来を勝手に決めてしまうところにパニック原因がある

2.神の顧みがないと僻んで決めない

マルコ4:38には「何とも思われないのですかとある。自分たちのことを顧みられていないというすねた見方をしない事だ


V.人生の嵐を沈められるキリスト

主は「嵐と波を叱りつけて、風もおさまり凪」(24)になった

私達はこの奇跡に驚くが天地万物は神の作品。私たちも自分の作った作品を意のままにできるように、大自然も神の御子の御手で意のままにできるに不思議はない。

感謝な事はキリストは、嵐に慌てふためく弟子達と同じ舟に乗り風を叱り嵐を鎮めてくださった。弟子達を叱られたのではなく風を叱られた。

【適用】弟子達も私達も人生で直面し、何度も慌てふためくが、そんな私達を裁かず、苦難の時に共に同じ人生の舟に乗り信仰を教えてくださる主に感謝!

主はく「思い煩うな」と言われたが、「心配などどこ吹く風という人よりも嵐に慌てふためいてしまう人の方が仰り甲斐?!があるというものだ! 感謝!

posted by kbcc at 20:34| 礼拝

2018年01月29日

2018年1月28日礼拝メッセージ「まじめなのに喜びがない人」ルカ15章25−32節音声で聴く。

ルカ15:25−34      「まじめなのに喜びがない人」      18.1.28

【序】真面目であることは良いことだ。でもまじめなのに喜びがないというのは残念な生き方である。そして現代、そのような人が多いのではないかと思う。その原因は何なのかということを、今日聖書に出てくる兄息子の姿から考えたい。


T.物語の背景(11-24)

兄息子を正しく理解するためには弟息子の話を知った上でないとわからない。この話はいきなり弟息子が父に「財産をくれ」(12)とあるが、これは当時絶対言ってはならない父との絶縁の言葉!それ程、弟息子は愚れた息子。散々家族を困らせ、仕事も中途半端で遊び好き。それさえ長続きしない。放蕩三昧の後、金が底をつき、友達にも見捨てられ、一人ぼっち!そんな時、我に返り父を思い出す。プライドも捨てて帰還し、父に謝る。父は喜んで走り迎え弟息子を歓迎→宴会!となる。ここまでの理解をした上で兄の話になる。


U.兄息子に見られる人間の姿

兄は弟とは違って自分も家出を!はない。弟の分まで働く律儀者。世間は言う「あの家がもっ

てるのは御長男のお陰。偉いなあ」誠に品行方正、まじめで通っている。しかし弟帰還の宴会で一

気に怒りが爆発(28)!そして彼の言葉の中に意外な本音が噴出。

1.我慢だけのがんばり

「長年あなたに仕え、戒めを破った事は一度もありません」(29a兄は正しくて立派だが、その実29bで語る→「だのに楽しめといって子山羊一匹を下さったことはありません」(29b) 本当は遊びたくてしょうがない。しかし遊ばない。兄は恥をかく事が一番怖い。体面を取り繕う道徳主義。父に仕えて立派に仕事をしているが喜びなし、満足なし。ただ我慢していたのだ。この我慢だけでがんばっているのはいつか爆発してしまう。

2.愛がないということ

「遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰ってきたあなたの息子(30)

「弟」なのに「あなたの息子」と言う。関係を切った冷たい心!どんなに立派で仕事ができ正義でも愛がないというのは問題を解決しない。誰かの為に頑張るのは立派だが「私は正しい」と頑張るのは相手が間違っていると発信しており、それが無限に人を傷つけている。それに気がつかない。中途半端に正しい事は恐ろしい事!

【例】太宰治「優秀の優という字は優しいとも読む。真に優秀な人は優しい人だ。また人偏に憂いと書くように優しい人は必ず人の憂いを知っている。中途半端に優れている人が人を傷つける、その事に気づかない」

3.報われていることに気がつかない

 兄は「一匹ももらっていない」(29)と言うが「父は身代を二人に分けてやった」(12)既に残りは自分の物(31)。ほしければ食べればいいのに報われていないと誤解する。

では「報い」とは何か?→正しいことができるということ自体で充分報われている。良い事ができる、それ故信頼もされるという事自体、ちゃんと報いを受けている。

【適用】兄タイプの人は優秀という事で十分報いを受けている。信用を得るしお金も貯まる。教会には概して兄タイプの人が集まる。兄の優秀さを更に磨きをかけて更に良い人間になろうとする。自分でやれるのであれば、やったらよい。しかしやればやる程やれない自分に気づきそこから罪が分かり、救いの必要が分かってくる。十字架の必要が分かってくる。 


posted by kbcc at 13:37| 礼拝

2018年01月22日

2018年1月21日礼拝メッセージ「泣かなくてもよい」ルカ7章11−17節音声で聴く。

ルカ7:11−17         「泣かなくてよい」        18.1.21

【序】中世の画家たちが描くキリストの顔はなぜか似ている。それには言い伝えがある。キリストが十字架を負ってゴルゴダまでの道を歩かれた時に、頭にかぶせられた茨の冠のトゲで額から出血し、顔が血で染まった時、ベロニカという敬虔な女性が自分のベールでキリストの顔に当てて血を拭った。そのベールについた血痕がキリストの聖画の元になったらしい。キリストのお顔が実際どのようなのかは知りたいところだが、今日の箇所にはルックス以上にキリストの素晴らしさが表されている。


T.キリストの心

キリストがナインという町に行かれた時「大勢の人の群れが一緒に行った」(11)とある。町は喜びに溢れキリストを大勢で迎えた。だがその中に悲しみに涙する人がいた。するとキリストはその喜びの輪から離れ、悲しむ人のところに近づかれる。それは「やもめとなった母親の一人息子が死んで担ぎ出されていた」(12)からである。この女性は、夫を先に失い、頼みの綱であるひとり息子「青年」(14,20)

を失うという悲しみに潰されていたのである。 

【適用】この世はまじめに生きている人が報われる世界であってほしいが、なぜか不幸が襲う。逆にずるい人がスイスイ行く場合もある。そのような人生の矛盾にやり場のない悲しみを覚える時がある。しかし知ってほしいのは、キリストは歓喜の中から離れて、その悲しむ人を知り寄り添うお方であるという事だ!


U.キリストの言葉

「主はその母親を見てかわいそうに思い、『泣かなくてもよい』と言われた」(13)

キリストは人生の矛盾に嘆き悲しむ者に深い同情心を持つと共に驚くべき言葉を語られる。「泣かなくてもよい」。人もまた励ましの意味で「泣かないで」という事もある。しかしこの「泣かなくてもよい」は違う。泣く原因をストップさせる力ある言葉なのだ。人間には無力を感じさせる無数の問題がある。心の怒りや愚痴や妬みを消せない無力、人間関係の無力、仕事や人生の無力。それに対してキリストは力ある聖書の言葉によってあなたの問題をストップさせる力をお持ちである。

【証】「聖書と私」(三浦綾子)―人間の心って余程の事がないと変わらないのに!


V.キリストの力

「青年よ。あなたに言う、起きなさい…するとその死人は起き上がった」(14,15)

キリストは多くの奇跡を行われたが、この奇跡は癒される側の信仰の言及はない。

有るのはキリストの愛が動いて奇跡を行われたという事である。ここに慰めがある。

私達は「私は信仰が薄いから、奇跡は起こらないのだ」と思うが、この話はこちら

の信仰の有無以上にキリストの愛が先行しているのだ。この奇跡の話は我々の信仰

の強弱に関わらずなされる神の御業があることに励まされ神を仰いで進んでいこう

ではないか!

posted by kbcc at 11:36| 礼拝