2017年09月03日

2017年9月3日礼拝メッセージ 「逆境と回復」」ルカ1章57−66節音声で聴く。


ルカ1:57−66 「逆境と回復

【序】人生いつも順風満帆とは行かない。時に逆風を受ける事がある。辛い思いもするしかし正月に子供が遊ぶ「凧上げ」は逆風でないと空に舞い上がらない様に人生にも逆風特有の恵みもあるのだ。今日の話はキリストの道備えをした洗礼者ヨハネの誕生のところだが、その両親が学んだ出来事から「逆境と回復」として語りたい


T.逆境も終わりの時がある

ザカリヤは言葉を話す機能を失うという逆境を経験したが、やがて回復して神の恵を誉め讃える者になった。試練の時には「このままで終わるのではないか。自分は神に見捨てられたのではないか」という不安を感じるが、そうではない。逆境も終わる時がある。

【適用】しかし病気に負けて終わる人生もあるではないか、という疑問の方へ:

病気に負けたから死ぬのではない。神がその人を天国で必要とされる時が来たから地上の生涯を終えて召されるのだ。クリスチャンには世を終えると思われる死でさえ永遠の命の道が開かれているのだから。


U.逆境の時には反省せよ

ザカリヤ神への信仰をもっていたが、念願の子供を与えられるという約束を聞いた時、嬉しい筈なのに、神の全能を信じる信仰を働かせるができなかった。今までの常識とか経験で判断したために不信仰に陥った。「ここ一番」という時があるが、その時、形式だけの信仰であった事に気づかされた。ザカリヤは言葉を失い、人々とのコミュニケーションを失う中で、神と対峙し神に信頼することを学んだ。

【適用】「逆境の時には反省せよ」(伝7:14)とある。反省というのは自分はダメだというのが反省ではなく、何が一番大切なのかを見直すことが反省なのである。人生で二番目、三番目であるものを無自覚に一番大切にしてしまってきた事の反省が大事である。

【証】ヘルニア手術で入院中に学んだ「何が一番か?という問い…


V.失うのは得るためである

 赤ちゃんが手にする好きな飴をもっと美味しいチョコレートがあると、飴を手放してチョコレートを取るように、神様はもっと大切なものがあることを教えるために、人生で失うことを経験させる。ザカリヤはある期間言葉を失ったが、後にキリストを預言する言葉と力を与えられている。言葉の自由を失ったが、それは又新しい言葉と自由を得るためであった。知って頂きたい事は、失うことは新しいことを得るためであるという事である。

【適用】元体育教師であった星野富弘さん首から下動かない体の機能を失われたが、口に筆をくわえて花と詩を描き他の人には出来ない人を慰める新しいを与えられた…「動ける人が動かないでいるのには忍耐がいる、動けない人が動かないでいるのに忍耐など必要だろうか、そう気づいた時、身体をぐるぐるに縛っている呪縛という鎖が解けた気がした」「雨にも負けて風にも負けて夏の暑さにも負けて「東に病気の人がいても西に困っている人がいても何もしにない。丈夫な身体になりたくて健康食品にも気を遣い美味いものが好きで拙いものが嫌いでお金もほしい着物もほしい…そんな私があおむけで寝ている」(勝者とか敗北者を超えた余裕)

posted by kbcc at 23:13| 礼拝

2017年08月27日

2017年8月27日礼拝メッセージ「平安」音声で聴く。


ヨハネ14:27            「平安」          17.8.27
【序】「平安」は心と体に良いという事はよく知られているが「長寿」さえもたらすのをご存じだろうか。浜松医大教授の高田明和氏は、その著『病は気からの科学』でこう語る。@医療の進歩は寿命を延ばさなかった。A血圧を下げても寿命は延びない、と「医療神話」を数々のデータをあげながら崩した後、では何が寿命を延ばすのか→「安心感が寿命を延ばす」と。しかし現代医学が出した結論を何とキリストは二千年前に語られていた。それは如何なる平安か、又どうすれば得られるのか、ストレス社会で不安に囲まれ易い私達もキリストの言葉を聞こう。

T.世がもたらす平安
 「わたしが与えるのは世が与えるのとは違います」
 世がもたらす平安の特徴→ルカ12:16-21でキリストは言及された。
「わが魂に向かってこう言おう「これから先何年分も物が貯められた。さあ『安心して』(19) 
この種の平安は「物事が上手く行っている時にもたらされるもの」(健康に問題がないとか、仕事が順調とか、経済や家庭に問題がないとか…)しかしこれは物事がうまく行くという条件付きの平安なので、条件が壊れると忽ち平安は無くなる。条件が壊れる最たるものは「死」である→「お前の魂は今夜取り去られる」(ルカ12:20)
死を前にしてはこの世の平安だけ安心して生きていると心もとないのではないか!

U.神によってもたらされる平安
「わたしはあなたがたにわたしの平安を与えます」
世がもたらす平安が条件付きなのに対し、神が下さる平安は無条件である。言い換えれば人生の嵐の時にも、死がひたひたやってくる時にももたらされる平安である。【証】牧会の中で味わった二つの経験
@末期癌の会社役員の訪問…「牧師、何しに来た!」と言わんばかりの対応だったが、何度目かの訪問で私の腕を掴んで言われた「牧師さん、私はもうダメかも知れません…」家に帰れば邸宅や外車が二台、富もあるが死の不安に勝てない…
A故佐々木姉の最後「もう私は天にお召しが近いように思います。お世話になりました、先生もいつか来てくださいよ」次の朝、天に静かに帰られた。主の平安の恵み!

V.どのようにして平安を得ることができるか
「神を信じなさい」(14:1)
アウグスチヌスは「懺悔録」の本の冒頭で「神よ、あなたは人を造られました、故に人はあなたを知るまでは真の平安を得ることができないのです」と言った。あなたの創造者を知り信じ生きることだ。ここから嵐の中の平安人生が始まる!
【証】賀川豊彦は旧姓中学生の時、母から「お前は父さんが外で女に生ませた子、妾の子だよ」と衝撃の言葉を聞き、彼の心は嵐のように吹きすさんだ。自殺を思う日々の中、呉服屋に勤める青年から聖書を通して「神こそあなたの造り主である」と聞き父への複雑な思いが消え平安に満たされた、そして教会に行く事を勧められる。教会で更にキリストの愛を知り、彼のトラウマは神の愛によって癒され救いと平安に預かる。さらには暗い境遇さえ用いられる神戸新開地での伝道が展開されていく →創造者なる神への信仰と信頼、これが平安の秘訣!
posted by kbcc at 13:16| 礼拝

2017年08月21日

2017年8月20日礼拝メッセージ音声で聴く。

ルカ1:26−38 「受胎告知の意味」     

【序】産経新聞夕刊(8/17)一面に「関西の力」の特集があり、淀川キリスト教病院のホスピスについての記事があった。柏木医師が米国研修で終末医療を学び帰国後同僚の仲間に伝えると「どう対処していいかわからない患者がいる」といった声が相次いだ。ある患者は「こんな体になって天国に行けるのか」と悩み、別の人は「苦しいのは罰が当たったからだ」と責めていた。主治医では手に負えない「魂の苦痛を抱えていた」とあり、そこからチャプレンを含む日本最初のホスピス医療が始まった…人には医学や心理学やお金では解決できない魂の悩みがある。その悩みのために神は人類に救い主を与えられた。今日の箇所は「受胎告知」と言われる救い主の誕生予告の記事である。この箇所は乙女マリヤがヨセフの介在無しに神によって救い主を身籠るという前代未聞の出来事で実に信じ難い個所である。それを科学的マインドをもっている医者ルカが書き表す。ルカが伝える受胎告知の意味は何か、伝えたい。


T.救い主が罪の性質を受けないで生まれるため

Q:善良なヨセフとマリヤから普通にキリストが生まれてはダメなのか?

ダメなのである。どんなに善良な夫婦でも罪の性質は免れない。罪の性質を持つ男と罪の性質を持つ女との間に生まれた子はやはり罪の性質をもって生まれる。罪をもっていては人類の罪から救うことはできない。だから35節!

例:泥棒が泥棒を救えないのと同じで、罪人は罪人を救えない。罪のないお方だけが人類の罪を救う事ができるのだ。そのために救い主は罪の性質を受けない神の直接介入の誕生がなされたのだ。その事を人間の生理を知り尽くしている医者ルカが語るのである。


U.救い主が人の世に来て人を救うため

Q:人から生まれなくても天から人を救うだけではダメなのか?

ダメなのである。キリストは「人の子」と呼ばれた。意味は人の悲しみ、苦しみ、弱さ、罪、死を深く知り、又両親に仕えることを学び、成長してからはヨセフが他界した後マリヤを顧みることを学ぶ…人間の営みを体験し、深く同情できるためにはある家庭の中で育つ必要があるからである。

【子供トラクト例話】無数の蟻が食料をくわえてせっせと列をなして巣に帰る道を急いでいる。しかしその先には蟻にとって猛毒の樹液が塗られている。このままでは皆死ぬ。あなたはそれを見て蟻を助けたいと思い道を変えさせようとしたが、蟻はまた元に戻ってしまう。大声を出しても人間の言葉は通じない。そこであなたはとんでもない決断をする。人間を捨て蟻になる一大決心!蟻になったあなたの言葉は蟻にはわかる。そして蟻は皆助かった…キリストは人間を救うために神の位を捨てて人の世に生まれて下さった。へブル4:15,16


V.救い主が全能の神がおられることを示すため

Q:聖書の非科学的な記事を取り除いたら多くの人が受け入れるではないか?

ダメなのである。信仰は非常識であってはならないが、常識を超える世界があるのだ。

「神に不可能はない」(37)と語られているからだ。しかし私たちにとって神の全能を信じるとはどういう事か最後に語っておきたい。それは様々な問題や、病に対して絶対成功するとか、病は癒されると信じ切るという態度が神の全能を信じる事ではない。そういう態度は次の瞬間そうならなかったらどうなるのかという不安が必ず生じるからである。それを考える時、マリヤの態度は励まされ慰められる。「お言葉通りこの身になりますように」(38)神の素晴らしい希望のメッセージや全能の力の約束を聴いたとき、そう信じきることよりも、そうなりますようにと祈り続ける。その態度でいいし聖書的なのだ。


posted by kbcc at 08:38| 礼拝