2018年06月08日

2018年6月3日礼拝メッセージ「気をもむ日々からの解放」ルカ12章22-30節 音声で聴く。

ルカ12:22−30     「気をもむ日々からの解放」      18.6.3

【序】アバコというキリスト教団体のアンケートで「聖書の中で最も好きな言葉は?」に「明日を思い煩うな」が第1位だったそうだ。裏を返せば、それほど思い煩う生き方に支配されているという事だ。勿論誰も好んで気をもむ人はいない。できれば気をもまない日々を送りたい。でも現実は気をもんでしまう。そういう私たちなので、今日の御言葉をしっかり受け止めたい。


T.原語で「気をもむ」とはどんな意味か

 「気をもむ」は原語で「引っ張られる」である。あの事、この事で問題に引っ張られてしまうことである。自分が問題を引っ張るのはいいのだが、逆なのだ。問題に自分が引っ張られてしまう。すると自分がフラフラして安定を失い、落ち着かなくなってしまう訳だ。このフラフラする自分の状態は心にも体にも良くない。


U.気をもまない日々を生きるために知るべき事は何か

1.気をもんでも問題は解決しない

「心配したからと言って、自分の命を少しでも延ばすことができますか」(25

とキリストは言われた。私たちは、あの事この事、特に健康のことを心配するわけだが、今まで多くの病者と関わってきたが、深く感じる実感は、人は病気で死ぬのではない、人は寿命で死ぬのだ。神の時が来ないなら、どんなに重い病でも死なないし、神の時が来たらどんなに健康を誇っていても死ぬ、という事。思い煩っても寿命を延ばせない。神の時までは人は生きるし、信仰者なら延命より永遠の命を与えられている。これは幸いである!


2.最善の計画をされる神がおられる

「どんなによくしてくださることでしょう」(28)(「よく」=最善の意味。)

【例証】・ヨセフの生涯―兄の虐待や冤罪での牢獄が未来の祝福の計らいに至るとは!

・モーセの生涯―王子から転落人生で一介の羊飼いになり無意味に思えた荒野の生活がやがて民を荒野に導く時の前もっての学習体験であったとは!

ヨセフの牢獄自体は最悪だったが最善だった。またモーセの荒野生活も最悪だったが最善だった。神が導かれる人生は最高の人生ではないかもしれないが最善の人生なのだ。神の最善を信じて生きて行こう!


3.神はあなたの必要を知っておられる(30)

「あなたがたの父はそれがあなたがたに必要であることを知っておられます」(30だから心配するな。心配よりも信頼が大事。

【適用】孫の遊ぶジクソーパズル…端から見ていて答えは大人の私には直ぐにわかる。孫はまごまごして思案顔。神と人間の関係も似ている。問題に直面している人間には答えが分からず気をもむのだが、それを見ている神には答えが分かる。→「わたしのしている事は今はあなたにはわからないが後でわかるようになります」(ヨハネ13:7

posted by kbcc at 10:34| 礼拝

2018年05月28日

2018年5月27日礼拝メッセージ「大丈夫!の福音」-涙の谷を過ぎるとも-詩篇84章5-7節 音声で聴く。

詩篇84:5―7     「大丈夫!の福音」-涙の谷を過ぎるともー     18/5.27

【序】今日のような主題を付けると「そんなこと言ったって、行きたい学校や会社にも行けず、病や挫折もしたし、大丈夫!なんて言えないのではないか?と思われるかもしれない。でも「涙の谷を通るとも大丈夫」なのだという聖書のメッセージお伝えしたい。


T.涙の谷を通る時に避けるべき生き方

涙の谷を歩んでいるとき、人は色々と間違った理由付けを聞かされる。

「悪い星のもとに生まれたから」「過去の失敗の所為でそうなった」とか…それで心が暗くなって前向きに生きれない思いになり易い。でも以下の生き方は避けるべき!

1.良かった探しができなくなること

悲しみ経験が大きいから、それを受容できない時がある。しかし、どんな辛い経験にも感謝すべき事がある筈だ。

    【例】長野県の湯治場「無くなったものを数えるな。有るものを憶えよ」

2.当たらぬ言い訳に終始する生き方

イソップに出てくる狐の様に、手の届かない葡萄を「あれは酸っぱい葡萄」と決めつけて、取る努力をしない生き方。しかし言い訳ばかりでは正しい自己反省も新しい力も得られない。

 3.恨みで生きる生き方

   この不幸をもたらしたのはあの人、環境、神様にある、と恨んで生きている。恨みからは何ものも良いものは生まれない。

U.涙の谷を通る本当の理由

では私たちが涙の谷を通る本当の理由を聖書は語る。

「そこを泉の湧くところとします」(6)

「そこを」=涙の谷そのもの。「そこを泉の湧くところとします」

つまり、あなたが涙の谷を通った或いは通っている理由は「泉の湧く生涯への招き」だったのだ。神の御心は、涙が癒されるだけではなく、その経験を通して、あなたを通して周りの人に泉が湧き上がる様な経験に導く事にある。

V.泉が湧く生涯の秘訣

ではどうしたらそんな泉の湧く生涯へて導かれる事ができるのか?それは悲しみにも負けないという条件だろうか?或いはタフで不屈の精神の持ち主が条件だろうか?違うのだ!聖書は一つだけその秘訣を教えている→「何と幸いなことでしょう。その力があなたにあり、その力があなた(神)にありその心がシオンへの大路にある人」(5)

「シオン」とは神を礼拝する神殿があった丘のこと。つまり特別な人に泉が湧くのではなく、悲しみがあるかもしれないが、それでもそんな中でも神への礼拝の道を淡々と歩む人の中に泉が湧く事を約束しているのだ。

posted by kbcc at 19:12| 礼拝

2018年05月23日

2018年5月20日礼拝メッセージ「赦されないただ一つの罪」ルカ12章10節 音声で聴く。


ルカ12:10      「赦されないただ一つの罪」         18/5.20【序】神様は何でも赦して下さる筈なのに、赦されない罪があるとキリストは言われた。その罪とは大量殺人だろうか?残虐なテロだろうか?…気になる事である。そこで今日のメッセージで、先ず赦されない罪とは何か?第二にそれはなぜ赦されないのか。第三にこの事を通して示される神の御心は何かをお語りしたい。


T.赦されない唯一の罪とは何か

それは「聖霊を汚す」(10) ことが赦されない罪でという事だ。その理解のためには、聖霊の働きを知る必要がある。Tコリント12:3「聖霊によらなければ誰もイエスを主と言う事は出来ない」つまりこの聖霊は「イエス様は私の罪からの救い主です」という告白に導くお方であり、聖霊を汚すとは「キリストを受け入れない事」だ。

【適用】キリスト教というのは善人だったら救われ、悪人だったら救われない、というのではない。【例】殺人を犯した悪人Aと善人BAは刑務所に入れられ、そこで牧師から聖書の話を聞き、心から罪を認め悔い改めキリストを受け入れた。善人Bは教会で聖書の話を聞いたが、罪を認めずキリストを受け入れる必要はないとした。つまりAは聖霊に従ってキリストを受け入れたが、Bは聖霊に従わずキりストを受け入れなかった。それゆえAは死後、罪の赦しを得て天国に行けるが、Bは残念ながら死後罪の赦しを得ないで天国には行けない。善人がどうして?と思うかもしれないが、真の善人ならば、自分が良心に恥じる罪もある事を謙虚に認め、従ってキリストに救いを求める筈。だから全ての人は罪を正直に認めてキリストを信じる聖霊の働きに従うかどうかが問われている。


U.なぜ聖霊に逆らう罪は赦されないのか

それは神が折角我々人間のために御子の命を犠牲にしてまで開いて下さった唯一の救いの道を拒む事になるからである。つまりキリストは神の位を捨てて人となり十字架で人類の罪を負い身代わりに裁きを受けて下さった。それ程の神の愛を無視し、十字架の救いを不要とし福音を信じない事であるので、これは最大の罪なのである。

【適用】聖書は人間の罪を四つ定義する。→「不法」(法を破る)「不善」(道徳的罪)「不義」(十戒を破る罪神の前の罪)「不信」―この中で最大の罪は「不信」である。

【例】家庭裁判所に勤める知人の話…幸福な家庭とはお父さんをお父さん、お母さんをお母さんと呼べる家庭。そう呼べない家庭を多く見てきた。親と子に信頼が無くなる不信の関係は最大の不幸。

V.この事を通してわかる神の御心は何か

神はそれ以外の罪を赦してくださるし、また私達もお互い赦しなさい、という事。コロサイ3:12「主があなたがたを赦したようにあなたがたもそうしなさい」と赦しをお互い生かし合いなさいと勧められている。しかし人間関係で最も難しいのは赦しだ。簡単にはいかない。それだけに赦しの葛藤とその勝利の祝福の証は心を打つ。

【ピーター南の証】次頁参照

ピーター南の証

韓国から米国に渡り、お金さえあれば何でも手に入ると考え必死でビジネスを展開し非常に成功したが、心は虚しくお酒を飲み過ぎて中毒になり肝硬変で体が衰弱。医者から「このままなら3か月で死ぬ」と言われ、死の不安に直面。必死で救いを求めた時、一度も読んだことのない聖書に出会いキリストによる救いを得た。

その後、カリフォルニア州に自分のようなビジネスマンの救いと成長のためのリゾートキャンプ場を建設したいと計画。幸い65万ドルの土地物件が紹介されたが手元には15万ドルしかなかったが、残額は数年後でよいと言われて契約。しかし後になって話が違い3か月後に残額50万ドルの支払いを請求されてしまった。祈っていたらマルコ11:2324を示され、不要な山を売ればいいのだと三か月間毎日朝から晩まで祈り続け、祈った後は、山に向かって「山よ、移れ」と命じてきたが、山は一向に動かない。それである日、神にこう呟いた「今まで信じてきたのに御言葉がその通りになりません。もうこれで万策尽きました。今まで信じてきた御言葉が信じられなければ何を信じるんですか。神様、さようなら。」すると神の声ならざる声が聞こえてきた「あなたはどうして御言葉を勝手に半分だけ聞くのか、まだ後があるだろう」と25節の御言葉を示された。そこにはこう書かれていた「又立って祈っている時に誰かに対して恨みごとがあったら赦してやりなさい。そうすれば天におられる父もあなたがたの罪を赦して下さいます」。その時、思い当たることがあった。それはこのキャンプ場建設に加わった人が最初百名ほどいたが、だんだん難しい問題が生じた時離れ、そのうち二人が他の人を動かして協力させないようにしていたのであり、又返済額の支払い時期を早めるようにしたのもその二人であった。その二人を憎んでいた事を示されたのである。向こうが悪いのだから、という気持ちであったが、神は「先ずあなたが赦しなさい」と言われ十字架のキリストの祈りを示され遂に赦しができたのだった。その祈りの6日後、答えが来た。有る人が「高速道路のために土がいるのであの山を売ってくれませんか」と返済額をはるかに越える額を提示され借金は見事に完済した!

赦しには大きな祝福が伴うのだ!

posted by kbcc at 17:11| 礼拝