2018年09月10日

2018年9月9日礼拝メッセージ「山が動く」ルカ17章5,6節 音声で聴く。

「山が動く」ルカ17章5,6節

【序】人生で直面する問題の「山」が動いてほしいと思うことないだろうか。昔の弟子達もそんな「山」が動いてほしいと思い、キリストに尋ねた。今日はどうしたら動かぬ山」が動くのか、又「山」が動くとはどんなことなのか、メッセージしたい。


T.問題の「山」が動かないのは信仰が弱いからではない

弟子達はキリストに言った「信仰を増してください」(5)

マタイ17章に同じ記事が詳しく書かれ説教題もそこからの方が日本人にぴったりかと思い取ったが、弟子達が主に尋ねたいきさつが書いてある。我が子の病気で悩む父親に弟子達は何の助けも与えられなかったが、キリストが癒されるのを見て、弟子達が後で、その癒しの原動力は信仰の強化にあると考え「信仰を増してください」と求めた今日なら聖書をもっと読み、もっと祈り、もっと熱心であればが山が動くのではないかと考えるのと同じしかしキリストの答えは意外だった→「からし種ほどの信仰があれば…」(6)からし種は粒のような種量ではないのだ、質なのだ。ではからし種の信仰とは?


U.難題の「山」を動かすからし種ほどの信仰とは何か

「からし種ほどの信仰があったら…」(6)

からし種の信仰とは視点を変える事「山」から目を移し、「神」に目を移すこと。

私たちは「問題の山」が目の前に迫ると、「山」を見て圧倒され、恐れてしまう。しかし山が如何に大きくても、あなたを支配するのは山ではない。あなたを支配するのはあなた造られ山さえ動かす全能の愛の神なのだ。信仰とは山ではなく神に目を移す事である。僅かでもいい、向きを変えることだ。能面でも少しでも向きを変えると表情が全く違うように状況が変わってくる。

 【証】8月31日病床洗礼を受けられた吉宗博兄はキリスト教を拒絶してこられたが私の訪問を受け入れるとの返事。肺がんで危篤状態との連絡を受け病院に着いた時は全く返事も反応もない。1時間呼びかけ続けても変化はない。この「動かぬ山」に支配されそうになったが、視点を変えて神に目を注ぐ、その繰り返しであったが、僅かな信仰でも神はそのからし種の信仰を顧み、信仰告白と洗礼に導かれた。


V.「山」が動くとはどんな事か

1.「山」自体が動く文字通り問題の山が動いて解決が起こる。

【証】ナイロビの婦人…夫が死に生活にも困り始めた。山を相続したが畑をしようにも土の下は岩盤で農作に適しさない「山」を売るにも畑に適しない山は売れない。そんな時、教会で今日の山が動く話を聞いた。そこで毎日山の前で畑地になるよう祈ったが何も起こらない。そんな時政府役人が来てこの近くに高速道路を作りたいが、あなたのの下にアスファルトがあるのが分かった。4百万ドルで、売ってほしい」山が掘削されアスファルトが取り出され、土だけになったところで固い山地が畑になった。「山」が文字通り動いたのである。

2.「心の山」が動く支配されている様に思える「山」が平地に見える

【証】ニューヨークリハビリセンターの壁にある詩…次頁参照

大事を成そうとして力を与えてほしいと神に求めたのに、

慎み深く、従順であるようにと弱さを授かった。

より偉大なことができるように健康を求めたのに
よりよきことができるようにと病弱を与えられた。

幸せになろうとして富を求めたのに、
賢明であるようにと貧困を授かった。

世の人々の賞賛を得ようとして、権力を求めたのに、
神の前にひざまずくようにと弱さを授かった。

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるように命を授かった。

求めたものは一つとして与えられなかったが、
願いはすべて聞き届けられた。

神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、
心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた。

私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。
        

(訳者不明)

posted by kbcc at 02:22| 礼拝

2018年09月02日

2018年9月2日礼拝メッセージ 中西正夫牧師 「死後の世界はあるのか?」ルカ16章19-31節 音声で聴く。

「死後の世界はあるのか?」ルカ16章19-31節

ルカ16:137死後の世界はあるのか」18/9.2

【序】私は高3の夏休みに交通事故に遭い、飛ばされて意識を失った、黒山の人だかりの中、意識が戻った時に出た思いは「死ななかった!」だった。こういう経験をしたので、その後私は「いったい死後に世界はあるのか?」という疑問の答えをどうしても知りたくなった。もしないなら地上ののみに集中して好きなように生きよう。しかしもしあるならちゃんと備えをしなければならない、と考えた訳である。死は誰もが最後に迎える。あなたも考えるべき課題ではないか?今日はその事に真正面から答えられたキリストの言葉に耳を傾けよう


T死後の世界ある

キリストの話の中に二人の人物が登場する。強欲で神よりもお金が大事考える金持ちと、貧しく病もあるが神を敬うラザロという人物。この二人が共に死ぬ。金持ちは死んで葬られ、ラザロは葬儀もない死に方で人生が終わる。しかしである。死んで終わりではなかった。ラザロはアブラハムのふところ、つまり天国に行き(23)、他方、金持ちは地獄で苦しんでいる(24)。死後の世界はあるのだ。又二つしかない。そこで何が行われるか?この世の矛盾が正されるのだ(25)

【適用】ある人は死後の世界なんて作り話だと言うが、地上だけが全てなら、何とこの世は矛盾だろう。悪人が甘い汁を吸い裁かれる事なく終わる?…善人が報われずに誤解されたまま死ぬ?納得できだろうか?!神はそれを赦されないのだ。この世の矛盾不公平、罪の裁きがしく行われる世界が死後にあるのだ。(26)

U.天国と地獄に行き来はできない

「そればかりではなく、私達とおまえ達との間には大きな淵がある。ここからそちらへ渡れないし、そこからこちらに越えてくることもできない」(26)

言葉を代えて言えば死んでから誰かがお祈りをすれば死んだ魂は天国に行けるというのは儚い期待である。「死後の二つの世界は超えて行けない」だ。

【適用】死者のために祈る祈りは無効である。葬儀の時に祈るべき祈りは遺族の平安と救いの為であって死者のための祈りは無意味なのである

V.死後の世界を決めるのは聖書に対する態度で決まる


死後の世界を決定づけるのは、地上に生きている時の聖書に対する態度である。(31)聖書のメッセージを聞いて、創造者に対する真を尽くしてキリストを救い主と信じて悔い改めるか、それとも創造者を受け入れずに自己中心に生きるのか、という態度が自分を決める【証】先週金曜日、かねてより入院されていた吉宗博さん(真喜子姉の父上、里菜姉の御祖父様)が信仰告白されてそれに伴い病床洗礼式が行われた。長くキリストを拒み続けておられた。出会いは3年前家族の納骨式を依頼され車で2時間話した、関学の出身者でチャペルにで出られたが全くの無神論者。しかし2年前肺癌。自覚は無かった。一か月症状が悪化し入院。真喜子姉に「お見舞いに行きたいがお父さんに打診してもらえますか」無神論者であったが返事は「来てもらいたい」そして先週水曜日に行くことになっていたがが出て不可。祈りつつ金曜日駅前伝道に出かけているとき電話が入り「危篤」急遽出かけたが反応なし。しかし午後になって孫の里菜姉が到着して、反応回復。イエス様信じる?に手を二度まで上げて応答。私も婦人集会が終わり病院行き「イエス様を信じますか問いに頷きで応えられた。1時間後病床洗礼に導かれた。そしてその晩召天された。正に最後の成すべき務めを終えたかのごとくの召天だった。

posted by kbcc at 14:20| 礼拝

2018年08月26日

2018年8月26日礼拝メッセージ 「あなたを救う素晴らしい福音」Tコリント15章1-2節 中西正夫音声で聴く。

Tコリント15:1,2  「あなたを救う素晴らしい福音」  18.8.26

【序】今日の箇所に「この福音によって救われる」と聖書自身が語っているが、この福音はキリストが2千年前に成しとげられたのであるが、驚かされるのは2千年前の出来事なのに現代の人々の悩みに答える内容をもっている事である

  

T.あるがままのあなたを愛する福音

人間って本当はあるがままで愛され受け入れてほしいのだ。それが可能な時代は赤ちゃんの時代。文句なくあるがままで愛される存在である。お金があるからでもなく、将来活躍するからというのでもない。ただこの家に生まれてくれたという存在そのものの喜びである。しかし子供が学校に上がるようになるとそうは行かない。やれ成績だ、能力だ、ルックスだとプラスαで愛や価値が決まってしまう。それがないと落ちこぼれというレッテルも貼られる。社会人になると今度は給料や地位に関わる成績で一喜一憂、勝ち組、負け組で戦々恐々の世界である。だから現代多くの人が人間関係でノイローゼにな。しかしここにこの現代に救いをもたらす福音がある。「わたしの目にはあなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している」(イザヤ43;4)あるがままのあなたを愛する神の、十字架の愛!


U.真に生きる目的をもたらす福音

    人は自分のしていることに意味や目的がなければ生きていけない。幼い時は意味や目的

が無くても楽しければそれでいいが、大人はそうは行かない。

【例】私が○○さんに声をかけ「昔遊んだ滑り台でもしますか」と誘う。「いいなあ声が上ずっている順番を決め。おもむろに滑る。感激というがするすると○○さん突然スーパーマンの格好で前すべり…こんなことを一日中していたら、きっと疑われるに違いない。子供にはできても大人にはできない、何の為にと考えるとできなくなるのだ。

人は正しい意義のある目的のために生きたいのだ。ではそれは何か?仕事をするため?

そうなら元々仕事ができない人には生きる目的がないといいう事になる。有るのは目先

の目的ではないか?聖書によれば人間の生きる目的は「神と人を愛する事」(マタイ22:37-40

福音はこの目的を指し示すのだ!


V.将来の不安を取り除く福音

 自分の将来に不安を感じている人は多いある集会「神があなたの未来を見せてあげようとしたら見たいか?」ほとんどは見たくない、と答えた。もし大変な問題があるなら不安で対処できないからだが、どうだろう?もしその問題が身に降りかかっても決して自分を破壊しないという世界が分かれば大丈夫!そんな世界があるのか?あるここに素晴らしい聖書の福音の希望がある。ローマ8:28万事を益とする神がおられるのだ


W.最大の不安である死に打ち勝つ福音

健康の不安は強烈。その先に敗北しかない死があると思うからだ。

【例】「ついに行く道とはかねて聞きしかど、昨日今日とは思はざりけり」(在原業平)

「今よりは何にか頼まん方もなし教えて給へ後の世のこと」(良寛)

しかし人類最大の不安に勝利する道が与えられた→キリストの復活である(3,4)それは妄想でもなく、上手く考えた作り話でもない。キリストは文字通り死に打ち勝ち復活されたのだ。弟子達の殉教と、2千年の信者の証言から裏打ちされた永遠の希望なのである。キリストこそ死に打ち勝ち永遠の命を与えて下さるお方 福音を受け入れませんか?


posted by kbcc at 15:12| 礼拝