2018年11月06日

2018年11月4日礼拝メッセージ 「キリストの透視力」ルカ19章29−35節音声で聴く。

ルカ19:29−35        「キリストの透視力」       18.11.4

【序】私は55年間聖書を読んでいるが今でも「聖書は凄い!」と思わせるものがある。2千年以上も前に書かれた本なのに、現代の問題に適格に答えを示すその洞察に驚かされるし、更に主イエスというお方自身。奇跡も勿論の事だが、今日の箇所にはキリストの驚くべき透視―見通す力が記されている。それはいったいどのような透視なのか、またそれは私達に何を意味しているのか伝えたい。


T.キリストの透視は:場所を超える透視である

キリストはエルサレム入場の際、ロバの子に乗って入場されたが、その時そのロバは隣村に繋がれていたが、それを透視して弟子達を遣わされた。→2930

私達の視力は周りにあるものしか見えない。目の前に障害物や遮るものがあれば、その向こうは見えないが、キリストの透視は見えないはずの隣村に繋がれているロバの子を見通せるのだ。

【適用】キリストの場所を超える透視が私たちに意味する事:

あなたの家族(親や子)で遠くに離れて生活している人がおられるだろうか?いつも見れないというのは時に心配をもたらす。しかしあなたが遠く離れた家族を見れなくても、神はその家族をも目の前に見ておられ、しかも守られるのだ。

【証】インディアン酋長の15歳の息子が酋長になるための訓練…夜中にたった一人で弓を持たせて狼の遠吠えが聞こえる荒野に一晩中過ごさせる。その恐怖に打ち勝つ者でなければ酋長にはなれない。その不安と恐れの中一睡もできずに夜を過ごすのだが、太陽が昇り始める時、その少年と離れた木の陰で弓をつがえ、少年に獣が襲いかかるなら矢を放とうと身構えている老人の姿があるという。神は同じ様にあなたを見守られる!


U.キリストの透視は:時間を超える透視である

私達が分かるのは過去と現在で、未来は解らない。しかしキリストの透視は時間を超えて、未来がどうなるかを予知できる→3132

【適用】キリストの時間を超えて予知できる透視が私達に意味する事:

あなたは自分の未来がどうなっていくか、時に不安を感じるだろう。しかし残念ながら人間には未来が分からない。しかし神は未来を現在のように透視できるお方である。その神があなたの未来についてこう言われる→エレミヤ29:11

信仰とは神の約束の祝福を掴む手のようなものである。

【例】中学時、駅前で偽のパーカー万年筆を掴まされた苦い話→良い物を掴もう!


V.キリストの透視は:心の中を見ぬく透視である

 私達は相手がどんな言葉を出すか、心の中は解らない。しかしキリストの透視はどんな言葉を発するかという心の中さえ見通せるお方である。詩篇139:4

【証】神学校のチャペルでのマックスウエル先生の証…幼い時は母が常に「神様が見ておられる」と言われるのが怖かった。いっそのこと神を知らされなかった方が楽だと思った。しかし大人になってこの母の言葉が慰めに変わった。なぜなら人にどう説明しても理解してもらえない時、神は知ってくださっている、と思う事は深い慰めだったと。

posted by kbcc at 16:26| 礼拝

2018年10月28日

2018年10月28日礼拝メッセージ 「人生の嵐に悩む時」マルコ4章35−41節音声で聴く。   

「人生の嵐に悩む時」マルコ4章35−41節

【序】人生、スイスイと行ってほしいが、現実は様々な嵐が起こる。健康の事、家族の事、人間関係、経済の事…そんな時不安に襲われる今日の聖書はそのような嵐の時に知るべき三つの真理があると教えている伝えたい。


T.自分のが通用しない嵐がある

キリストの弟子達は漁師であり湖のプロであったが、その湖で嵐に会いキリストに「どうしてそんなに怖がるのか」(40)と言われた程パニックになった。私達も経験を積んだ環境なのに自分の知恵や力が通用しない人生の嵐を経験する。

【適用】世には神様なんか信じなくても自分の知識、経験で何とかやっていけると語る自信家がいるが、それは自分の力で何とかできる範囲の嵐しか経験してこなかっただけ。しかし人はローソクの火の上に1分と手を置いておけない無力の存在。自然の嵐にも怯えるものだが、心の嵐―憎しみ、妬み、怒りを鎮める事さえできない存在。ましてや死がひたひた寄ってくる時、自分に頼れるか?だから強がる事をやめよう。素晴らしい事に、恐れの時は、今までの力とは別の新しい神の力を知る時なのだ。なので神はその祝福に導こうとされている


U.人生の嵐の時してはいけない事がある

1.自分で運命を決めてしまう事

世の嵐に囲まれる時の悪い考えは自分の将来を勝手にもうダメと決めてしまう事。「私達が溺れて死にそう」(38)と断定しているが、そうではない。人間の未来を決定するのは神なのだ。適用自分ダメだと劣等感に陥り未来は開けないと悩む時があるが、ダメかダメでないかを決めるのは自分ではなく自分を造られた神なのだ。ダメなら神があなたをその嵐を通らせない筈。意味がある。

2.僻む事

嵐の中で弟子達は「何とも思われないのですか」(38)と僻んだ言葉を語っている。

キリストが知らんぷりをしていると間違って思っているのだ。僻みとは一種の誤解なのだ。嵐の時、誰がいなくても神がおられるのに誰もわかってくれないという僻み。聖書のマルタもそうだったがこれは攻撃的な心を作ってしまう。


V.嵐を沈めるお方がいる事を知る

「黙れ。静まれ。すると風は止み大凪になった」(39)

私達は人生の嵐を沈める力はなく慌てふためくばかりだが、感謝な事キリストは天地創造された神の御子である方だから、その手の作品である自然を支配できるお方しかも私たちの人生に同船し「嵐」を沈めてくださる!

【適用】私は人生の嵐の時、神に信頼できないで、悪い結果になったらどうしようとひとり孤独で悩みやすい。しかし覚えたいことは、私たちの未来がどん底になるような事態になり一人ぼっちになるように思えた時でさえ、下支えして下さる神様がおられるという事だ。申命記33:27「昔よりの神は済む家、永遠の腕が下に」

【結び】心配性の方への励まし…主は「思い煩うな」と言われたが中々そうできない。何度も委ねた積もりが又煩い。自分は小さな信仰だと嘆く。しかし主にしてみれば心配などどこ吹く風という人よりも、心配ばかりする私たちの方が「よし分かった!任せなさい」と仰り甲斐があるだろう!

posted by kbcc at 21:18| 礼拝

2018年10月22日

2018年10月21日礼拝メッセージ「成功したのに満たせなかった人」ルカ19:1-10音声で聴く。   

ルカ19:1−10成功したのに満たせなかった人」  

【序】TV番組に「なんでも鑑定団」がある。「お宝」を鑑定士から価値を付けてもらうのだが、数千万円という評価で大喜びもあれば百万円で買ったが偽物で5千円、聴衆の笑いを誘う→結局価値は誰が作者かが決定的。聖書によると、あなたの作者は最高に偉大な神であり、それ故あなた自身に素晴らしい価値があるのだが、今日出てくる人物は違うもので自分を価値づけようとした人である。しかしやがて真に価値づけをして下さる方に出会う。伝えたい。


T.ザアカイが目指したもの 

「取税人のかしらで金持ち」(2)仕事で成功し地位と富を得、それによって自分を価値づけようと生きたのだ。これは今日多くの人が求める生き方で、凡そ人が幸福と考えるものを悉く手にした筈だが…彼は幸せではなかった。

U.成功者になったのに意外な虚しさ

@思ったほど満足感なし

 彼は成功者となったが、どうしてもキリストに会いたいと思い、大人げもなく無花果桑の木に登ってまで見ようとする(3,4)。キリストは全く地位や富に縁が無く愛の極みの様な方。もしザアカイが地位と富で満足していたら、どうしてもキリストに会いたいとは思わない筈。これは彼が地位やと富で満足できなかったという事。  

なぜ富や地位で自分を価値づけることができないのか?→「神は人の心に永遠を与えられた」(伝3:11)つまり神に造られた人間はその心に永遠なる神を受け入れて初めて満足できるのに、この世の一時的なものでは満足できない様に造られている。

 A愛されない孤独

「罪人」(7)と呼ばれる→愛されてないという事!人々は仕事上自分の所に来るが、人間として愛されてない寂しさ! 

  【適用】孤独というのは内気とか友達付き合いが下手だからという理由で孤独なのではない。人は最後まで頼りになる友を持っていないという理由で全ての人が孤独なのだ。両親も友人もお金も地位も最後まで頼りにならない。ザアカイは堪らない孤独を感じた。

 B罪を自覚し始めた

   「私がだまし取ったものは…」(8) これは素晴らしい自覚なのだ。罪を犯したことは悪だが、その自覚があるかないかが大切だ。

【例】教会学校教師が生徒に尋ねた「キミは死んだら天国に行けるかな?地獄かな?」生徒「良い事をした人は天国に行け、悪い事をした人は地獄と思います。僕は良い事も悪い事も両方したので中国です」!!!

しかし良い行いの人が天国に行き悪い行いの人は地獄に行くのではない。聖書によれば「全ての人は罪を犯した」(ローマ3:23)とある。∴全ての人はそのままでは天国に行けない。ただ罪を素直に認める事が救いの始まり!ザアカイにこの自覚が生まれた。

V.虚しさからの救い

上記の三つの心の虚しさを払拭する方に出会った→キリストである!

@会った事もないのに自分の名前を知って名前で呼んでくれた(罪人と呼ばれていたのに)

A自分を価値ある者と認めてくれた(「アブラハムの子」とはユダヤ人にとって最高の扱い)

B自分を責めずに受け入れてくれた(→自ら罪の告白)

posted by kbcc at 08:21| 礼拝