2018年08月06日

2017年8月5日礼拝メッセージ  「我に返った人」中西正夫牧師 ルカ15:11−24音声で聴く。

【序】人を二つのタイプに分ける事がある。よくしゃべる人と寡黙な人。派手な人とおとなしい人…今日の話はキリストが話された最も有名な譬え話で、全く性格が違う兄弟が出てくる。兄はまじめだが弟は放蕩息子と言われるくらい遊び人。ところがその弟息子の中に誰にも有る人間の共通の問題が見えてくるその問題と救いを伝えたい。

T.放蕩息子に見る人間の問題

「父」無しで生きようとする生き方

「お父さん、私に財産の分け前をください」(11)父から独立しようという訳だ。独立と言えば聞こえがいいが、要するに父から離れ父無しで生きようとする。この話は単に親子の話ではなく、父なる神と人間との話なのだ。つまり息子が父を否定し父から離れて生きる姿は、造り主である神を神として敬わない人間の罪の姿なのだ。

【適用】神の恵みあればこその命であり日々の命の筈なのに、まるで自分で命を作り生きているように思うのは錯覚なのだ

自分を制御できない弱さ

 幾日も経たないうちに弟は遠い国に旅立った「さあ自由だ、何でも好きな事ができるしかし彼は放蕩して湯水のように財産を使い果たし転落人生が始まる→「放蕩して湯水のように財産を使ってしまった」(13)(快楽に溺れ遊女に溺れたのだ(30)

彼はお金を使いこなせないだけではなく自分自身を使いこなせなかったのだ!

人間の根本問題は政治や経済にあるのではない。根本問題は無力にある。分かっていながらどうにもできない無力にある。【証】星野富弘氏のトラクト「本当の私は強くもなく立派でもなく、たとえ立派なことを思っても次の日にはもういい加減なことを考えるだらしない私だったのです」

U.放蕩息子の救い

そんな彼がどうして立ち直れたのか?

1.我に返ったこと(17)

父に反逆し放蕩に身を持ち崩した後、自分の生の終わりを覗き見た彼はハっと「本心に立ち帰った」我に帰るとは=自分の惨めさに気づく事。

【適用】人は他人からどんなに説教されても認めないし動かない。周りにもそういう人がいるかもしれない。大切なことは説教する事ではなく、「我に帰るよう」祈る事だ!

2.罪を認識したこと(18)

彼は自分の行為を「罪」と表現している原語で「罪」とは「的外れ」の意味があるが、弟息子は個々の罪以上に父から離れて生きている事を的外れと認識した

3.父のところに帰る決心をしたこと(20)

 彼は父のところに変える決心をしただけではなく実際に行動した

V.放蕩息子を迎え入れる父

「父親はかわいそうに思って走り寄って彼を抱き口づけした」(20)。ふつうユダヤの老人は走らない。しかし老いた父が走る!息子を迎えに走るのだ。これが神の愛!

【結び】あなたはこの放蕩息子のに身を持ち崩すことはなかっただろうが、根本の生き方において神無しでやって行けると錯覚してないか又無力において同じではないか?そう気づいた時あなたを咎めだてもしないで迎え入れる神の愛を知るだろう。父なる神に帰ろう!また家族のために祈ろう!

posted by kbcc at 09:30| 礼拝

2018年07月30日

2018年7月29日礼拝メッセージ「あなたは高価で尊い」ルカ15章8-10節 音声で聴く。

ルカ15:8−10      「あなたは高価で尊い」         18.7.29

【序小学1年生の詩「先生、あのね、お母さんの宝物は僕だって。お母さんの宝物は絶対指輪だと思っていたけど、指輪は二番目だった。僕、宝物になっちゃって困るよ。宝物ってはめたり付けたり掛けたりするものなのに。でも何か良い気分。僕は外へ出て走り回ったよ」この様に誰かから宝物と思われるなら大人でも子供でも嬉しくなるが、現実は逆で酷い扱いを受けたりする。そこでキリストが話されたこの譬え話の持つ三つのメッセージを伝えたい。


T.あなたは死ぬまで高価で尊い

キリストは人間のことを様々な譬えを使って話しておられるが、最も多く使われたのは「羊」であるが、その他にも「葡萄」や「無花果」に喩えられたが、それらに共通しているのは「生きているもの」である。しかし一つだけ命の無いものに譬えらえた話がある。それが今日出てくる「お金」である。なぜキリストは人間をお金に喩えられたのか?それは「物」は(車でもPCでも)時間と共に価値が無くなるのに対して、お金はどんなに古くなってもヨレヨレになっても価値は変わらない。同様に神はあなたが年老いてもボロボロになったとしてもあなたを造られた神はあなたの中に変わらない尊い価値を埋め込まれているのである。


U.あなたを失うのは世界を失う事である

この銀貨はたまたま10枚あったというのではない。10枚の銀貨は、母から娘に伝

えられるもので、その10枚をワンセットにして鎖でつなぎ、髪飾りにする貴重なも

のだった。つまり、その一枚を失くすというのは、飾り物としては使えなくなる程

の大切な一枚であった。「あなたはわたしの目に高価で尊い。わたしはあなたを愛し

ている…国民をあなたのいのちの代わりにする」(イザヤ43:4にという様に、あ

なたという存在は国民を失うのと同等の価値をもつ程大切な存在なのだ。

【証】400年前キリシタンの宣教師が来日した時聖書を日本語に訳す作業をしたが、「神はあなたを愛している」をどう訳すか苦心した。当時愛という言葉は男女の愛を意味していたからである。それで宣教師は「あなたはデウス()の御大切」と訳した。これは名訳!「愛」=大切で

す。神はあなたを愛してる=神はあなたを大切に思っている。私達はよく「元気が

出る、出ない」と表現するが、あなたがたその環境で大切にされている時、あなた

に元気が出てくるのであり、あなたがその環境で大切にされていない時、元気が出

てこなくなるのである。故に「大切にして下さる」存在を発見するというのは極め

て幸せな発見である。


V.あなたを必死に探す神の愛がある

日本では神は神社に鎮座ましましており、その神に人間が近づいて願掛けをするのであって、聖書の話とは真逆である。真の神は神の方から失われた人を見い出すために探し求めて下さるのだ。失われた銀貨は我々人間である。あなたを探し求める神の姿がここにある。【証】中国人画家の描いた「放蕩息子」の絵…ルンペン風の息子が帰ってきたのを走り迎え抱きかかえる老いた父の姿だが、よく見ると履物が草履と靴というちぐはぐ!

posted by kbcc at 20:07| 礼拝

2018年07月25日

2018年7月22日礼拝メッセージ「喜びの日々を生きるために」使徒3章4-8節 音声で聴く。

使徒3:4−8        「喜びの日々を生きるために」      18.7.22

子供と大人の笑う時間についての統計を読んだ。子供は一日で2時間笑っているらしい。それに対して大人は一日2分間。僅か2分間って思うが、そうらしい。つまり一時間で5秒しか笑っていない計算になる。後はムスッとしているのだが、一番ムスッとしているのは家だそうだ。心当たりありますか? 一回限りの人生、喜びの日々を生きていきたいものだ。今日のメッセージがそのための助けになれば幸い。


T.玉木愛子さんの俳句に見る前向きな生き方

(ホトトギス派の俳人―16才の時、ハンセン病に罹り、長島愛生園に入園、82才の召天までそこで過ごす。ハンセン病はライ菌で神経が冒され顔や身体が崩れていく病、なのにこんな句を作られた。「目をささげ手足をささげクリスマス」玉木さんは「失った」という表現を使わず「ささげ」と語った。この歌は、喪失を恨めしい、負け惜しみ、というのではない。神に捧げたと言い得る感謝と深い信仰の歌!普通はこうは行かない。次の生き方になるのではないか。


U.後ろ向きな生き方

@失った事にいつまでも執着する―喪失は「悲しみ作業」という言葉があるように自然な悲しみの時を過ごすことは大切だが、一向に前を向かないのはいけない。

Aできない事に当たらぬ言い訳ばかり。取れない葡萄を酸い葡萄と決めつけるソップの狐…

B思うように行かない事で他人に八つ当たりする。

※一体どうして玉木さんの様な心境になれるだろうか?そのために二つの勧め:


V.喜びの日々を生きるための勧め(具体的生き方と根本的生き方)

1.喜びのハードルを下げませんか(具体的生き方)

私たちは誰もが裸で生まれゼロから人生をスタートする。そこに色々なものをくっつけていく。知識もお金も成功も…これ自体は良いのだが、問題はいつの間にかその獲得したものが当たり前になってしまう事。しかし当たり前ではないのだ。ヨブの告白の様に「裸で胎を出て裸でかしこに帰ろう」(ヨブ1:21)なのだ。だから喜びのハードルを低くしないといけない。例えば、長く入院生活した人が家に帰って普段の食事、枕、庭いじりを改めて感謝する。当たり前ではなかった。サンタモニカの海岸から見る夕日も高辺台公園から見る夕日も同じなのだ。喜びのハードルを下げては如何か!

2.神の御子キリストと個人的関係を持ちませんか(根本的生き方)

ペテロはこう言った。「金銀は私にはない。しかし私にあるものをあげよう。ナザレのイエスキリストの名によって歩きなさい」(使徒3:6確かにお金には力がある。家も買える、しかしか家庭は買えない。お金で高価な医療を受けることができる、しかし死に勝つ永遠の命は買えない。お金で平安も自由も喜びも買えないのだ。しかしキリストは永遠の命も平安も喜びもお与えになる。

【証】瞬き詩人の水野源三さんの証…次頁参照

【水野源三さんの証】

戦後しばらく経って、長野県の小学校で集団赤痢が発生し、55名が罹る。源三さんもその一人だった。三週間で峠を越したが高熱は下がらず、脳膜炎になり、意識が戻った時には手足の自由と言葉の自由を失う障害が残った。9歳の秋のことだった。「どうして僕はこんな病になり、こんな障害をもって生きるんだろう?そうまでして生きる意味があるのだろうか」…悶々とする苦悩の日々を過ごしていたが、12歳の時パン屋を営んでいた母の店に牧師がパンを買いに来、家に病人がいるのを知って「いかがですか」と尋ねた事から母は源三のことを伝えた。「そうだったんですか」と言い小さい聖書を置いて行った。源三の心は乾いていた。生きる意味を求めていた彼の心にキリストの言葉は慰めであり生きる力をもたらした。特にヨハネ9:1−3は心に響いた。弟子達がキリストに尋ねる「彼が生まれつき盲人のは誰が罪を犯したからですか?本人ですか、両親ですか?」キリストは答えられた「本人が罪を犯したのでもなく両親でもない。神のわざがこの人に現れるためである」何という素晴らしい言葉か!誰の罪の所為でこうなったのではなく、むしろ神を信じて生きる素晴らしさが僕に表れるなんて!源三の心はキリストこそ神の子救い主と信じる信仰に導かれた。それから不思議なことに信仰の詩が彼の心から多く生まれ始めた。瞬き詩人と言われるようになったのは病院で「ハイ」という時は目をつぶりなさい、と言われたことがきっかけ。また母が彼の言葉を何かに残せたらと思い五十音表を作り母が一つ一つ言葉を指して瞬きして答える。それが活字になって、信仰の歌がどんどん広がった。ある日姪から「病気のこと、どう思っているの?」と聞かれ、こう答えた。「感謝している。キリストを信じる事が出来たから」。この生き方は当時のNHKの朝の冠番組スタジオ102(鈴木健二)で取り上げられ全国に知られる所となった。→新聖歌292番「もしも私が苦しまなかったら」は彼の作。苦しみを恵みとして生きる喜びに溢れた歌である。

posted by kbcc at 12:49| 礼拝